愛知県 小折城 |
■小折城=見学自由 ■布袋東保育園 駐車場=無し (2007.10.7現在) |
住所=江南市小折町八反畑147 (東名高速道路 小牧I.C〜)国道41号を北上し、 村中交差点で国道155号へ左折。結構走って行き、 南山町中信号で県道172号へ左折、少しすると、 右側に布袋東保育園があって、そこの一部に石碑と 説明板がある。 |
生駒屋敷(小折城) | ||
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生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁公の子孫で、 生駒山麓谷口村に住んでいたが、応仁の頃に戦乱が続いたので、 尾張の小折に移り住んだ。 尾張へ移ったのは、応仁・文明の頃、前野氏の祖先、宗安が 承久の乱に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼ってきたと いわれている。(前野氏由来記)生駒氏は灰(染め物の原料)と 油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力をもつようになった。 生駒氏三代家宗の娘、吉乃(きつの)の方(幼名お類・久庵桂昌)は 織田信長の側室となり、信忠、信雄、五徳の二男一女を生み、 織田家に対して重要な地位を占め、尾北の豪族として小折に 城を構えた。 生駒屋敷が、織田・豊臣時代の歴史的舞台として注目される ようになったのは、この時代に織田信長や豊臣秀吉の参謀格として 働いた、前野氏(吉田氏)の子孫が編纂した「武功夜話」が 世に出たからである。その内容は今までの歴史的事実を 塗り替えるものであり、信長や秀吉が、天下制覇への第一歩を 踏み出した地がこの生駒屋敷であった。秀吉は幼少の頃、 日吉丸といい、矢作川の橋の上で蜂須賀小六と出会ったという 定説に対して、弘治元年(1555)生駒屋敷を訪れ、小六の輩下になる。 その時、信長側室「吉乃の方」のとりなしで、信長の下僕に 拾いあげられ、仕官はこの屋敷の二の丸の一隅であったと書いている。 その後、尾張を統一した信長は清洲城へ入っている。天文・弘治の頃から 生駒屋敷に姿を見せ、土田弥平治未亡人「お類」の美貌に心を 引かれてしまう。その頃から2人が逢瀬を楽しんだ「吉乃御殿」 伝承の地(龍神社の前方)がある。 また、永禄3年(1560)桶狭間の合戦の奇襲、西美濃攻め戦略は この地で練られ、蜂須賀小六や前野小(将)右衛門等によって 国々の情報を集め、戦いの費用は生駒八右衛門家長によって 賄われた。 永禄6年(1563)小牧山築城に始まる尾張北部の平定で、 秀吉(当時は藤吉郎)も鉄砲足軽百人組の頭にと頭角を現してきた。 信長、天下布武への道はこの屋敷を起点とし、太閤秀吉の天下人への 62年の生涯も、この屋敷の一角から大坂城へと引き継がれていった。 (江南市教育委員会の案内板より) (上=「生駒氏の邸址」石碑、下=布袋東保育園) | ||
生駒屋敷の中門 | ||
広間家はもと、生駒家の典医だった。廃藩置県のおり、
生駒屋敷の中門を貰いうけ移築したものである。
欅造りで、屋根は起破風にみられる凸形の曲線形が
きれいであり、波を模った棟瓦や波間に龍と
おぼしき動物が水煙をはいている鬼瓦は、
美術の粋をこらし立派である。当時、この門から駕籠が
出入りしたといい、南袖には棒を挿した穴がついており、
門の正面のなまこ壁など、昔時の生駒屋敷の偉容が
偲ばれる。(江南市教育委員会の案内板より)
住所=江南市布袋町中200(現・広間医院の門) |
■小折城
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