愛知県 松平館 |
■松平館=見学自由 ■松平郷 駐車場=無料駐車場 (2011.7.31現在) |
住所=豊田市松平町赤原 国道301号にある松平郷の案内から 入って、北へ進んで行くと駐車場がある。 |
松平館 | ||
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松平氏館跡(現松平東照宮)は、三時期の歴史的な
段階があった。初めは、親氏の居館としての松平氏館、
次に松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門
の居館、そして、居館廃絶後、今日に見るような元和年間に
勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の
段階である。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸がある。
松平家では3代松平信光が当館で出生した際、この清水を
用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったと
いわれている。天文11年(1542)に、家康が岡崎城で
誕生した際には、竹筒に詰めて早馬で届けたといわれている。
また、館跡正面から西側に巡る水堀の石垣は、江戸時代初期に
整備されたといわれている。
松平氏は、江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、 ここ松平町が発祥の地である。 伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が 諸国を流浪中、東国から三河の大浜、 そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり、 松平親氏を名乗り、松平城を本拠としたのが 始まりといわれる。3代信光の時、後の徳川将軍となる 松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代 寄合松平太郎左衛門家に分かれた。 信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へ 侵攻し西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、 松平氏9代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たした。 家康の死後、太郎左衛門家9代尚栄の時に、東照宮が 駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として 松平郷は幕府から敬まれてきた。 (豊田市教育委員会の案内板より) |
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松平氏遺跡の碑 | 松平東照宮 | 松平郷館(資料館) |
(左)奥が、松平氏郷跡地の碑。1番上の写真の 石垣上にある碑。 (右)この日、休館日だった…(^^;) | ||
笠掛けの「かえで」と見初めの井戸跡 | ||
その昔、親氏公(徳阿弥)が、高月院(寂静寺)を
訪ねる道すがら、この 「かえで」に笠を掛け、咲き誇る「あやめ」の 美しさにみとれ一息入れていた。 そこに「あやめ」を摘んでいた水姫が井戸の水に 一輪の「あやめ」を添えて 差し出したことが2人の出会いだった。 以後、多くの若い男女が見初めの 井戸により結ばれたと言われている。 見初めの井戸は、昭和7年の水害に よって、土砂で埋まってしまったため、 現在は天下茶屋東側に復元している。 (案内板より) |
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松平親氏公の像の入口 | 松平親氏公願文 | 松平親氏公の像 |
松平親氏公の像の入口に、松平親氏公願文があり、 奥に松平親氏公の像がある。 凄くリアルな顔で少し怖い(^^;) | ||
天下池 | ||
その昔、雨が降らず、農民は飢饉に苦しんでいた。
ある時、心無い人が草むら の長さ僅か数寸で、息も絶え絶えの小蛇を 踏んずけようとしていた。親氏公は これを諌め、蛇を救って小池に逃がしてやった。 蛇は一夜で元気を取り戻し、 龍となって天に昇り、遂に雲と雷光を起こし雨を降らせ、 天下の田畑を豊作に した。人々は、その蛇を神龍としてあがめ、 池を「龍池」と呼んだ。「龍池」は 現在の「天下池」の辺りにあったと言われている。 (松平郷ふるさとづくり委員会の案内板より) |
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松平郷桜馬場 | ||
ここは昔、三河国賀茂郡松平郷と称し、 徳川家始祖の松平氏発祥の地松平太郎 左衛門家の館跡で、お堀の内側に館があった。 お堀の西側一帯を桜馬場と言い、中央の窪地に 神饌田があり、一周300m位の馬場で、南側を 下手馬場、山寄りを上手馬場と呼んでいた。 ここの松平4代長勝が井田野の合戦の戦功により、 宗家4代親忠より騎馬兵士を率いて軍役を 勤めるよう命ぜられた。 永正3年(1506)宗家5代長親の時、岡崎へ 今川勢が攻め寄せたおり、ここの5代勝茂が 騎馬兵士を率いて一方の軍役をつとめ、敵を 退けたと言う記録があるので、この馬場で訓練を したと思える。後世に至り、松平東照宮の4月の 例祭には、明治維新まで三河国各地より献馬 (飾馬)がされていたが、以後は近隣部落より 献馬がなされて祭の広場となり、駆馬、空砲、 棒の手、芝居、狼煙等に使用されてきたが、 戦後、馬の飼育がされず、自然と献馬はなくなった。 その後、広場として使用され、お堀の付近、 上手馬場に桜並木の一部が残り、昔の面影を 偲ぶ事が出来る。 (豊田市観光課の案内板より・絵図も) |
■松平館
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