愛知県 野田城 |
■野田城=見学自由 駐車場=無し(この時は路駐) (2011.7.28現在) (左)二の丸と本丸との空堀。 |
住所=新城市豊島本城 この時は、国道301号を北上して、一鍬田畠中信号 (県道69号、県道392号と国道301号が右折になる交差点)で、 直進の県道392号へ。 県道から市道になるけれど、そのまま北上し、 線路を渡って、野田西信号を左折。 少し走って、案内に従って、豊島信号を左折。 その先の左側が城跡。 |
野田城 | |
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この城は、永正5年(1508)菅沼新八郎定則(田峯城主菅沼定忠の三男)が築城。
天文13年(1544)2代目定村が家督を継ぐ。
弘治元年(1555)定村は雨山の戦いで討死、3代目定盈(さだみつ)が
相続する。
永禄4年(1561)今川氏真に攻め落とされ、翌年奪還、城の修理の
為に大野田城に移る。元亀2年(1571)武田信玄襲来、定盈は
大野田城に火を放って最後へ退く。
武田勢は兵を収めて帰国。定盈は修復なった野田城に戻る。
天正18年(1590)定盈は、上州阿保に1万石で移封される。
城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と
続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、
当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
■野田の戦…元亀4年(1573)1月、上洛を狙う武田信玄は、 宇利峠を越えて三河に進出してきた。菅沼定盈の守るこの 野田城を攻撃するためであった。 野田城は小城であるが、備えが固くなかなか攻め込めない。 そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、 城内の水を涸らしてしまった。 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命も これまでと判断し、城を明け渡した。 (新城市教育委員会の案内板より・絵図も) |
三の丸 | ||
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(左)木々で鬱蒼としている。 (真ん中)勿論、中も木々が凄い。標柱は探せず(^^;) (右)三の丸と二の丸との空堀。 | ||
二の丸 | ||
(左)伊那街道 笛の盆の幟が立つ。 (真ん中)道路沿いから二の丸の標柱が見える。 (右)二の丸南側と本丸の空堀。 | ||
本丸 | ||
(左)二の丸と本丸の土橋から空堀を。 (真ん中)二の丸と本丸との土橋。 (右)城址碑。後ろの木が目立つ…(^^;) | ||
(左)本丸奥から櫓台方面。 (真ん中)本丸下の東側だったと思う…。 (右)侍屋敷跡方面へ進むと空堀っぽいものが。 | ||
侍屋敷跡 | ||
(左)本丸の石段を下りて侍屋敷跡へ。
(真ん中)振り向いて本丸方面。民家の壁に説明板があるのが印象的だった。 (右)侍屋敷跡から本丸横の坂を上がって、二の丸方面へ。 ちなみに、坂を上がりきった所に、愛車がいる(^^) |
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■野田城
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