桶狭間古戦場
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この付近一帯が桶狭間の戦いが行われた所で、
この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公最期の地でもある。
桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560)尾張の領主・
織田信長が、駿河・遠江・三河の領主・今川義元の、
十倍に余る大軍を打ち破った。
今川義元は、2万5千余の兵を率いて5月18日に沓掛城へ入り、
翌19日8時頃大高城へ向け出発。前日、瀬名氏俊が設営した
「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦・
丸根砦の戦果を聞きながら休息をしていたが、昼頃、
天気が急変し雷雨となり、高地に着陣していた今川軍
本体は落雷により大混乱状態になった。
一方、織田信長は午前4時頃、清洲城で鷲津砦・丸根砦が
今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞い
直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。
10時頃には善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、
雷雨の中を今川義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや
間髪をいれず今川軍に突撃、遂に今川義元を討ち取った。
(「信長公記」による)この戦いでの戦死者を、
織田信長は村人に丁重に葬るように命じて引き上げた。
村人は七つの塚を建て弔い、後年これを1つにして「七ッ塚」と
称して残してきた。(案内板より)
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桶狭間古戦場田楽坪の碑(左)&桶狭間古戦場の碑(真ん中) |
■桶狭間古戦場の碑…
昭和初期に古戦場公園近くの鞍流瀬川より発見されたもの。
正面には「桶狭間古戦場」、裏面には「文化十三年(1816)丙子
五月建」とある。途中で欠損しており、以下どの様な
文字が刻まれていたのか判然としないが、この碑が桶狭間
の戦いの激戦地と言われる田楽坪で発見された事は、
今川義元最期の地か、或いは戦いの中心地であったことを
標示したものと思われる。
■鞍流瀬川…
古戦場公園東側に沿う道の半分がかつては川で、激戦によって
人馬の血に染まり馬の鞍も流されていた事から、こう呼ばれるようになった。
ゲンジボタルの群棲地で、舞い飛ぶ様は戦死者の霊ととも
言われていたが、昭和61年(1986)の区画整理で埋め立てられ
暗渠となった。(桶狭間古戦場保存会の案内板より)
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大田錦城の歌碑 |
桶狭間古戦場の幟 |
桶狭間の戦いの幟 |
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駿公墓碣(すんこうぼけつ)&馬繋ぎのねずの木 |
■駿公墓碣(左)…この墓石は、田楽坪の「ねず塚」
に埋められていたもの。
■馬繋ぎのねずの木(右)…ここにある枯れたねずの木は、
着陣した今川義元が、田楽坪の泉で
水を飲む為に、馬を繋いだ木と言い
伝えられ、田の中に「ねず塚」として
残されてきた。この木に触れると、
熱病にかかるとの言い伝えもある。
(桶狭間古戦場保存会の案内板より)
(左)左より今川義元戦死之地の碑、今川義元公の碑、駿公墓碣。
(右)手前のテントは、盆踊りの為の救急所(^^)
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義元公首洗いの泉 |
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織田軍に攻められ討死した今川義元公の
首級を、この泉で洗い清めたと言われている。
昭和61年(1986)の区画整理まで、清水が豊富に
湧き出ていた。
ここは近崎道と三河道との合流点で、鳴海方面に
通じる要所だった。湧き出る水の勢いで水汲み用の
桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、
桶が廻る間の一服とて「桶廻間(おけはざま)」と
呼ぶようになったとの言い伝えもある。
江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」だったが、明治10年
(1877)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となった。
(桶狭間古戦場保存会の案内板より)
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