【桶狭間古戦場・名古屋市】

愛知県 桶狭間古戦場 あいちけん おけはざまこせんじょう
■桶狭間古戦場=見学自由(※豊明市にもある。)
■桶狭間古戦場公園
駐車場=無し(この時は路駐)  (2011.7.30現在)
←近世の曙。織田信長公と今川義元公の碑。
住所=名古屋市緑区有松桶狭間
この時は、国道23号を東へ進み、 国道23号と国道366号等との 有松インター信号を過ぎて(だったと思う)、 側道に入り東へ進み、次の交差点を左折。 道なりに北上し、幕山信号を右折、前方に公園。 ちなみに、向かう道中の左側の桶狭間寺前バス停に、 桶狭間古戦場の案内板と評定の松がある。 ちなみに、国道1号からの場合、桶狭間信号を南下。

桶狭間古戦場 (案内板の写真をクリック→拡大)
この付近一帯が桶狭間の戦いが行われた所で、 この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公最期の地でもある。 桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560)尾張の領主・ 織田信長が、駿河・遠江・三河の領主・今川義元の、 十倍に余る大軍を打ち破った。 今川義元は、2万5千余の兵を率いて5月18日に沓掛城へ入り、 翌19日8時頃大高城へ向け出発。前日、瀬名氏俊が設営した 「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦・ 丸根砦の戦果を聞きながら休息をしていたが、昼頃、 天気が急変し雷雨となり、高地に着陣していた今川軍 本体は落雷により大混乱状態になった。 一方、織田信長は午前4時頃、清洲城で鷲津砦・丸根砦が 今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞い 直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。 10時頃には善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、 雷雨の中を今川義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや 間髪をいれず今川軍に突撃、遂に今川義元を討ち取った。 (「信長公記」による)この戦いでの戦死者を、 織田信長は村人に丁重に葬るように命じて引き上げた。 村人は七つの塚を建て弔い、後年これを1つにして「七ッ塚」と 称して残してきた。(案内板より)
桶狭間古戦場田楽坪の碑(左)&桶狭間古戦場の碑(真ん中)
■桶狭間古戦場の碑… 昭和初期に古戦場公園近くの鞍流瀬川より発見されたもの。 正面には「桶狭間古戦場」、裏面には「文化十三年(1816)丙子 五月建」とある。途中で欠損しており、以下どの様な 文字が刻まれていたのか判然としないが、この碑が桶狭間 の戦いの激戦地と言われる田楽坪で発見された事は、 今川義元最期の地か、或いは戦いの中心地であったことを 標示したものと思われる。
■鞍流瀬川… 古戦場公園東側に沿う道の半分がかつては川で、激戦によって 人馬の血に染まり馬の鞍も流されていた事から、こう呼ばれるようになった。 ゲンジボタルの群棲地で、舞い飛ぶ様は戦死者の霊ととも 言われていたが、昭和61年(1986)の区画整理で埋め立てられ 暗渠となった。(桶狭間古戦場保存会の案内板より)
大田錦城の歌碑 桶狭間古戦場の幟 桶狭間の戦いの幟
駿公墓碣(すんこうぼけつ)&馬繋ぎのねずの木
■駿公墓碣(左)…この墓石は、田楽坪の「ねず塚」 に埋められていたもの。
■馬繋ぎのねずの木(右)…ここにある枯れたねずの木は、 着陣した今川義元が、田楽坪の泉で 水を飲む為に、馬を繋いだ木と言い 伝えられ、田の中に「ねず塚」として 残されてきた。この木に触れると、 熱病にかかるとの言い伝えもある。 (桶狭間古戦場保存会の案内板より)
(左)左より今川義元戦死之地の碑、今川義元公の碑、駿公墓碣。 (右)手前のテントは、盆踊りの為の救急所(^^)
義元公首洗いの泉
織田軍に攻められ討死した今川義元公の 首級を、この泉で洗い清めたと言われている。 昭和61年(1986)の区画整理まで、清水が豊富に 湧き出ていた。 ここは近崎道と三河道との合流点で、鳴海方面に 通じる要所だった。湧き出る水の勢いで水汲み用の 桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、 桶が廻る間の一服とて「桶廻間(おけはざま)」と 呼ぶようになったとの言い伝えもある。 江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」だったが、明治10年 (1877)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となった。 (桶狭間古戦場保存会の案内板より)
桶狭間の戦いのジオラマ
桶狭間の戦い(城や砦、街道、
各軍のルート)のジオラマ!!
何も考えずに見ると「?」状態。
…というわけで、仕方が無く、
写真に記入する事に…(^^;)

(左)記入しないバージョン(^^)
(右)離れた場所なので小さく。
評定の松&案内板
永禄3年(1560)桶狭間の合戦の時、 今川方の将・瀬名伊代守氏俊が、かつて ここにあった松の根元に武将を集め、 戦いの評議をしたと伝えられる。 この松は、昔から村人に「一本松」とか 「大松」と呼ばれ親しまれていたが、これまでに 台風や虫害の被害を受けて、惜しくも枯死している。 現在の松は、当時の戦評定を偲ぶ場所として植樹したものである。 (名古屋市教育委員会の案内板より)
(右)桶狭間寺前バス停の背後に、大きな桶狭間古戦場案内図や 評定の松がある。駐車場が無いから、バスがいないうちに、 急いで撮影(^^;)

■桶狭間古戦場
前日の夕方に訪れてみたら、盆踊りが開催されていた。 ここでするんだ…みたいな(^^;) それだけ、地元と密着した公園ということ♪ それに、桶狭間の曲が流れていたような(^^) だから、朝の静かな公園が、反対に不思議な感じだった。 織田信長と今川義元の銅像は立派だったし、 碑やジオラマなど、満足できる公園だった(^^)

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