愛知県 新城城 |
■新城城=見学自由 ■新城小学校 駐車場=無し(この時は新城市民体育館の 駐車場を利用した。) (2011.7.28現在) |
住所=新城市東入船 この時は、新城市民体育館の駐車場を 利用したので、そのアクセスを。 (新城駅の東側の)県道439号を南下して、 線路を渡って直進、突き当りの体育館前信号から 体育館の駐車場へ。その後、新城小学校へ徒歩で向かった。 |
新城城 | ||
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長篠城主であった奥平貞昌が、長篠・設楽原の 戦いで僅か500の兵で武田勝頼の1万5千の大軍から 長篠城を守り抜き、この戦いでの戦功を認められ、 織田信長から「信」の一字を貰い、「信昌」と改名。 また、徳川家康からは長女の亀姫をめとり、三遠 (三河と遠江)の地に3千貫(1万5千石)の知行を得て、 天正4年(1576)に新城城を築いた。 この城は、「しんしろ」という市名の由来になった とされる城跡である。長篠城に対しての新城(しんじょう) であったが、既に天文元年(1532)に菅沼定継が石田の 崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」 と呼ばれており、区別するために「新城城」と なっとも言われている。 本丸は、堀と土塁で囲まれていた部分、 現在の新城小学校の運動場一帯があたる。 現在、その堀と土塁の一部が残っている。 南は豊川の断崖に臨み、他の三方は、各々長さ約100m の土塁があり、土塁には堀が巡らされていた。 初代城主であった奥平信昌は、天正18年(1590)に徳川家康が 関東に移り住むようになると、あわせて上野国宮崎 (群馬県富岡市)に移住した。その後、何人かの城主交代を経て、 正保2年(1645)に新城城は廃城となった。 しかし、慶安元年(1648)に旗本の菅沼定実(野田城主の 菅沼定盈(さだみつ)が祖父にあたり、桜渕公園に桜の木を 植え始めた人物)が、陣屋(屋敷)をこの地に構えて以来、 明治2年(1869)の廃藩置県までこの地を生活の場としていた。 (新城市教育委員会の案内板・他より) | ||
大手門通り | 有教館跡 | 新城小学校 |
(左)体育館から北側の道路。「大手門通り」の碑もある。 (真ん中)民家にひっそりと…。 (右)校門の奥に凄い門が! | ||
東側の空堀 | 東側の土塁 | 城址碑 |
(左)1番上の写真の下にある空堀。残っているのが凄い! (真ん中&右)土塁の上には城址碑と説明板がある。 | ||
街灯 | ||
(左)朝顔のツルっぽい飾り付き。 レトロな雰囲気が、いい感じ(^^) (右)写真だと、普通の街灯だけど、 丸い鳥籠のようで、可愛かった。 |
■新城城
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