【東端城】

愛知県 東端城 あいちけん とうばたじょう
■東端城=見学自由
■城山稲荷
駐車場=無料駐車場        (2011.7.29現在)
←城山稲荷の下から見た土塁。
住所=安城市東端町中縄手
この時は、県道45号と県道46号との 東端町信号で、県道45号へ南西へ進む。 少し先の右側の木が生い茂った、 見えにくい細い道を右折。 すぐ左側の坂道を上がって(念空寺の反対側へ)、 城山稲荷へ。

東端城
東端城は、天正8年(1580)大浜郷にて羽城の 司令をつとめる長田久右衛門重元の長子・尚勝が築いた。 城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある 代表的な城郭であった。東端城絵図に見る東端城の 姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。 東端城が歴史の表舞台に出るのは、尚勝の弟・直勝によって である。直勝は、13歳の時に、家康の長男・松平信康に 仕えたが、天正7年(1579)に信康が自刃すると、 大浜へ帰り蟄居していた。しかしその後、18歳の時には、 家康に仕えるようになり、禄30貫を賜わった。この時姓を、 長田から永井に改め、永井伝八郎直勝とした。 天正12年(1584)直勝が22歳の時、初陣として小牧長久手の 戦いに出陣した。ここで彼は、敵将池田勝入斎恒興の首を 取る大殊勲を立てた。これにより、東端村の1000石の地を 賜わり、兄・尚勝に代わって東端城城主となった。 その後、関ケ原の戦いでも戦功を上げ、従来の領地に 城ヶ入村、高取村を合わせて4050石、さらに上総国、近江で 6千石、合計10050石となった。さらに、大阪夏の陣では、 豊臣秀頼切腹見届けの大役を務めた。この功績で、 これまでの領地を改め、上野国小幡で1万石、近江で2千石、 笠間近在で2万石、合計3万2千石を領有し、元和元年(1615)常陸国の笠間城の 城主となった。この時、東端城を離れ、以後、この城は廃城となった。 直勝は、その後も業績を上げ、元和5年(1619)に常陸国 新治郡柿岡、土浦両所にて2万石さらに同8年には、 新たに下総国内で2万石を加え、合計7万2千石を領し、 下総古河城城主となった。その間直勝は江戸にて、評定所の 奉行を務めたが、寛永2年(1625)63歳で没した。 (東端城と城主永井伝八郎直勝の碑より)
城山稲荷の駐車場 城址碑 東端城と城主永井氏の碑
(左)広くて安心♪ (真ん中)鳥居の下の碑は、「城山稲荷大明神」 と「東端城」の文字が。 (右)裏にも書かれている。
曲輪 土塁 遠景
(左)駐車場横。桜等の木々が。 (真ん中)城山稲荷の上部。1番上の写真が、 下から見た土塁。 (右)小高い東端城。

■東端城
駐車場が広くて安心。片側に城址の名前があったり、 城主の立派な碑があったり、さりげなく城跡をアピール するところがいいなぁ。 下から見る土塁が素敵だった♪

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