【東条城】

愛知県 東条城 あいちけん とうじょうじょう
■東条城=見学自由
■古城公園
駐車場=無料駐車場       (2007.2.11現在)
住所=幡豆郡吉良町駮馬字城山
この時は、西尾城からだったので、県道319号を南下し、 県道43号へ左折。県道12号との矢曽根町交差点で、直進の 318号へ進み、川を渡って県道42号との寺島交差点を過ぎて、 少しして左側に案内板があって、右に駐車場がある。

東条城
東条城は中世に吉良荘(きらのしょう)の東側を治めた 東条吉良氏の居城である。現在、城は独立丘陵に位置するように 見えるが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、 現在の県道は尾根の掘り切り部分を通っている。城の東から 南の沼田は藤波畷と呼ばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の 役割を果たしていた。 永禄4年(1561)に東条城は松平元康(家康)軍の攻略を 受け落城し、東条城には城代松井忠次(後の松平康親)が入城した。 天正3年(1575)年には松井は牧野城に転封となり、東条城は 廃城となった。主郭を中心に曲輪を巡らす中世の城の特徴を よく留めている。(吉良町教育委員会の案内板より)
鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。 その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。 以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、 東条の地は300余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。 南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。 その後裔が関東吉良氏である。 室町時代、応仁の乱(1467〜)では、10代義藤は山名宗全に味方して、 細川方の西条(西尾)吉良と骨肉争う悲劇を味わった。 12代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、 清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり、松平一門の 危機を救った。 家康は、桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、 永禄4年(1561)東条城を攻め、14代義昭、降伏して東条吉良家は 滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子義定を 旗本に取り立て吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。 落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立した。 家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・ 駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。 天正9年(1581)家忠が男子無く没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。 康親は天正11年に没したが、子孫は多く幕府の要職に付いた。 忠吉は関ヶ原合戦後尾張清洲城主となるが、慶長12年(1607)に没し、 後嗣無く東条松平家は断絶した。 また、ここには高名な文人・武人が多く訪れている。 室町時代に歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。 武人では、信長・家康も鷹狩りにことよせて訪れている。 東条城は、天正18年(1590)に家康が関東に移った後、廃城となった。 それ故、現在の遺構は、天正年間の姿を伝えるものである。 (案内板より)
(※右下の看板は本丸に移動!)
城址銘碑 駐車場 登城口(大手口とは別の)
大手口方面から来たけど、登城口付近の石碑を過ぎて、駐車場へ止めて、 その付近の登城口から歩くことに。
途中には冠木門が 副郭V(果樹園) 二の丸(副郭T)
この日は凄く風が強くて、寒いったらありゃしない! 近所の方も「高台だからねぇ…。」と。確かにっ(^^;)
二の丸(副郭T)の土塁 三の丸(副郭U)から本丸(主郭) 三の丸(副郭U)からの景色
この八幡社は、もともと東条城の鎮守として 祀られたものと思われ、境内の右手奥に、 当時の土塁が残っている。(案内板より) 中世の城には、後世に見るような堅固な石垣や、華麗な天守閣など 無いのが普通だった。この東条城は、中世の姿が 良く保存された貴重な城跡である。重臣の役宅などが、 この辺りにあったのかもしれない。(案内板より)
三の丸から本丸へ 虎口跡(大手門跡)
このたびの城門は創建当初(鎌倉時代)に、近いものに する努力をした。虎口は固く守るだけでなく、攻めだしやすく するため、特に工夫された。この虎口は土塁で、 挟むように作られている。 (案内板より)
虎口跡(大手門跡を入って右)&歌碑
(私は)東条殿には初めて参じました。二・三日逗留。連歌。発句は
(私が)ご辞退申しましたので、(東条殿が 次のように詠まれました。)
    藤の花が咲いて春も暮れようとしているが、
    盛りの色がいつまでも 変わらない春であってほしいものよ。
暮春によせてでしょう。翌日、宗長(私)は、
    寄せては返す波の花が、(藤の花と競うように)きらきらと輝いて、
    まるで春の海のかんざしのようです。
(と詠みました。)同じ暮春です。(案内板より)
本丸(主郭) 虎口跡(搦手門跡) 隅櫓跡
ここは城防衛の最後の拠点となった。 周囲は堅固な土塁や柵で取り囲まれていた。現在の復元土塁の 数倍近いものであったと思われる。また、いろいろな建物も あったことであろう。(案内板より) 表門(大手門)に対して、裏門のことを搦手門と呼ぶ。 古図と現在の地形から、この辺りに搦手門があったと 思われる。今は門に通じる道はなくなっている。 (案内板より) 古図(広島県中央図書館蔵)に、この本丸東北隅に 口の形で特記された箇所がある。現在も土を盛り上げた 形状がわずかに残っている。ここに隅櫓があったと 思われる。(案内板より)
物見櫓
東条城の物見櫓が、どの位置にあったか、またどのような 構造であったかは、今の時点でははっきりしない。 表門と同様、鎌倉時代の絵巻物(一遍上人聖絵)などを 参考にして再現された。今後の調査によって、位置なども 確認できるかも知れない。(案内板より)
帯曲輪 横矢掛け 大手口の冠木門
■横矢掛け…城兵が敵の側面を攻撃することや、その為の場所を横矢掛けという。 正面と側面から守ることで、城兵は有利に戦えた。 この部分は大きく陣地が張り出して、周りの土手を登ってくる 敵兵を、弓などで攻撃できた。(案内板より)
大手口への登城口 大手登城口へ向かう道 札辻跡
大手口の登城口へ下りると、高札が立てられた札辻跡へ出る。 ちなみに、登城口の碑に書かれた馬が可愛い。

■東条城
説明板が設置してあって、分かりやすい城跡(^^)本丸の案内板は、もとは駐車場に あったらしく、現在地に×が(笑)この看板が詳しく書いているので、散策しやすい♪ 凄く寒かったけど、曲輪も土塁も、物見櫓も、いい感じでよかった〜(^^)

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