秋田県 秋田城 |
■秋田城(別名=出羽柵)=見学自由 ■秋田城跡出土品収蔵庫 駐車場=秋田城跡出土品収蔵庫の駐車場を利用。 ※無料駐車場 (2010.9.24現在) |
住所=秋田市寺内 この時は、カーナビに任せてしまって、 メモらず…。 ちなみに、高清水公園の南西方面にある 秋田城跡出土品収蔵庫 の駐車場を利用した。 |
秋田城 | ||
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秋田城跡は、奈良時代から平安時代にわたって、東北地方の 日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁の遺跡で、 古代の軍事、文化の中心地だった。 天平5年(733)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷された 当初は「出羽柵(いではのき)」と呼ばれ、 やがて天平宝字4年(760)頃、秋田城と 呼ばれるようになった。奈良時代には、出羽国の政治を行う 「国府」が置かれ、大陸の渤海国(中国東北部)など 対北方交易の拠点としても、重要な役割を果たしていたと 考えられている。 秋田城は、土塀に屋根を上げ瓦で葺いた「築地塀」で 囲まれていた。その範囲は、東西南北約550mで、 総延長2.2kmにもなり、これを「外郭築地塀」と呼び、 北西側の角がとれたような形をしている。 外郭築地塀に囲まれたほぼ中央に、さらに東西94m、 南北77mの横長の一画があり、これを「政庁」と呼んでいる。 しかし、築地塀もやがて、木材を立て並べた塀に変わったことが、 発掘調査により分かっている。 昭和34年から37年には国が直接、発掘調査をした。 その後、昭和47年からは継続して秋田市教育委員会が 発掘調査を実施している。 発掘調査によって明らかにされた竪穴住居跡や掘立柱 建物跡、井戸跡等は、平成元年度から計画的に整備され、 歴史公園として生まれ変わりつつある。 また、平成6年度から9年度で、外郭東門と築地塀が実物大で 復元された。 (秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所の案内板より) | ||
秋田城跡の幟 | 駐車場の案内板 | 秋田城跡出土品収蔵庫 |
(左)秋田城の付近に♪ (真ん中)南西から来ると、見落としそうな 駐車場の案内板が。そして出土品収蔵庫へ。 | ||
駐車場 | 外郭東門の手前 | 秋田城の模型 |
(左)出土品収蔵庫の駐車場を利用。 (真ん中)出土品収蔵庫側から外郭東門の手前、 だだっ広く緑が広がる。 | ||
外郭東門・外郭築地 | ||
■外郭東門…平成元年度の発掘調査で発見された
奈良時代の外郭東門を復元したものである。
秋田城の東門の特徴は、軒先に付く軒瓦がないこと、
部材をつなぐ所に舟肘木(ふなひじき)を使用している
ことである。木材の仕上げは槍の穂先の様な
やりがんなという古代と同じ工具で削り、また、表面に
丹土(につち)を塗っている。 ■外郭築地… 門の横に続く土壁を築地と呼ぶ。 土を人の手でつき固めながら積み上げる 版築(はんちんく)という古代と同じ工法で造られている。 築地の手前にある深さ7mの土取り穴は、築地を積む 土を取ったときに出来た穴で、後にゴミ捨て場として 使われ、発掘時には多数の漆紙文書、木簡それに猪、 馬、鯨、鳥等の骨が発掘された。 (文化庁・秋田市教育委員会の案内板より) |
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東大路 | ||
秋田城の外から東門を通り、政庁に 向かう重要な道路。素掘りの側溝の 跡が発見されているが、それから 推定すると道路幅が12mで、今の 道路と比べても立派なものである。 敷石などが発見されていないので、 土の道路だったと考えられる。 (文化庁・秋田市教育委員会の案内板より) | ||
沼 | ||
前方の沼は、縄文時代以前に飛び砂によって 沢が堰き止められてできた自然の沼を利用したもの。 沼は、城内で行われた大祓等の祀りで使われた人形、 斎串、人面墨書土器等を流す神聖な場として利用されている。 また沼底の泥炭層からは杉、松、稲等の植物の 花粉が多数発見され、現在とあまり変わらない様子で あったことがわかる。 (案内板より) | ||
覆屋の中の井戸 | ||
覆屋の中の井戸は、平安時代に作られた。 構造は、厚い板を3〜4段井籠組にし、 その外側に板を縦に2〜3重に立て並べた簡単なもの。 板材には、井戸と関係の無い切り込みがあることから、 再利用の材料である事がわかる。 周辺の地形は、平安時代も現在と大きな変化が ないことから、当時から浅い井戸だったと思われる。 また水は古代から涸れることなく、今もこんこんと 湧き出てている。 (文化庁・秋田市教育委員会の案内板より) | ||
建物跡や井戸など | ||
他にも、建物跡や住居跡などが表面表示されている。 (右以外)歩くのが面倒で、ズームで撮影。←横着者(^^;) | ||
■秋田城
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