沼舘城 |
沼舘城は、戦国時代に当地方を支配していた小野寺氏によって
造営されたものであるが、その成立、消長には諸説がある。
奥州征伐の戦功により、源頼朝から雄勝郡の地頭職に任じられた
小野寺氏は、稲庭城を本拠として次第に勢力を拡大し、
要地要地に支城を築くようになる。
沼舘城は、13世紀後半に3代道有が、平鹿西部を管轄する
拠点とする為、清原氏滅亡後荒廃していた沼の柵本城跡を
修復し、重臣落合氏を配置したものであるという。
さらに版図が広がるにつれて小野寺氏は、稲庭では領国支配が
不便になり、16世紀前半には、13代稙道(…たねみち、
稚道、植道という系図もある)が沼舘城に本拠を移して
統治にあたったので、当地は雄・平・仙を結ぶ要衝の地として
発展した。稙道の子輝道はさらに本拠を横手に移し、
沼舘城には一族の大築地織部秀道(おおついじおりべひでみち)を
置いて城代としたが、小野寺氏が太閤検地に反対する一揆を
起こしたために、沼舘城も最上義光(もがみよしあき)らの
攻撃を受けた。大築地織部は小勢のため防ぎきれず、
天正18年(1590)10月、やむなく自ら城に火を放って横手本陣へ
退却し、沼舘城は世上からその姿を消す事になった。
沼舘城の推定規模は約七町歩(7ha)である。
本丸に比定される蔵光院の南・東端には、高さ6〜10m・
幅6mの土塁があり、境内に井戸跡・文庫跡・庭園跡・
皀英門(さいかちもん)跡などが推定されている。
二の丸に比定される沼舘小学校の西・北端にも、低い土塁が
残っており、校地内に武庫跡があったと言われる。
また、本丸と二の丸の境に「枯れずの沼」があり、三の丸に
比定される北東部には、舘小路・下小路・馬場等の地名が
残っている。
(雄物川町教育委員会の案内板より・絵図も)
|
沼の柵本城跡 |
平安時代、応徳3年(1086)「沼の柵」合戦、
いわゆる「後三年の役」が起きた。
前九年の役後、奥羽二州(陸奥・出羽)を
清原氏一族が支配しており、真衡(さねひら)の死後、
陸奥六郡を清衡(きよひら)・家衡(いえひら)兄弟が
二分していた。
しかし、土地や人民に対して統制ある支配を行う
ためには同族的連合の形では不可能になり、族長権を
めぐって一族に不和が生じて起こった戦いである。
清衡は、朝廷から陸奥守に任ぜられて赴任した源義家
(八幡太郎義家)の加勢を得て、家衡のこもる沼の柵を
攻めたのである。水柵(四方を水で守られた柵)と
いわれた沼の柵は簡単には落城せず、やがて激しい
風雪の中での戦いになった。
清衡・義家軍は大雪と寒さ、その上食料の欠乏にあい、
馬肉を食って飢えを凌ぎ、仮死状態の兵を懐に抱いて
ぬくもりを与え、蘇生させたりしたが、多くの軍兵を
失い苦戦した。このように自然の要害に守られた沼の
柵を攻め落とす事のできなかった清衡・義家軍は、いったん
陸奥へ引き上げた。
その後、家衡は叔父武衡(たけひら)の進言により、
沼の柵よりも要害堅固の地である金沢の柵へ移る。
再び戦いが始まり、激しい攻防戦の後、清衡・
義家軍は金沢の柵を攻め落とし、後三年の役は終わった。
清衡は清原氏の勢力をつぎ、藤原氏を名乗り中尊寺の
金色堂など栄華を極めた平泉三代文化の基礎を築く事になる。
(雄物川町教育委員会の案内板より)
(写真)900年祭顕彰碑。
|
山門から本丸へ |
振り返って |
山門横(内側)の土塁 |
山門から境内に続く細道。 |
山門を振り返って、右側の土塁を。 |
外側もいいけれど、内側も素敵! |
 |
 |
 |
蔵光院 |
低くなった所が |
本丸・南西の出入口 |
ここに本丸跡の石碑があった。 |
深くなった所が。何の跡かな。 |
本丸内を歩いて南西の外へ。 |
 |
 |
 |
本丸・南西から |
二の丸方面(西側)を。 |
本丸南側を。堀跡がいい感じ♪ |
南西の景色。 |
 |
 |
 |
本丸・北東の土塁 |
本丸・東側の土塁 |
本丸・北側の土塁 |
(左)沼の柵本城跡の標柱。
(真ん中)左の写真から東へ長く続く土塁。現存なのが凄いな。
(右)小学校側から。
|
 |
 |
 |
二の丸 |
本丸南西から二の丸 |
蔵光院のごりやく君 |
小学校が立つ二の丸。 |
本丸南西から二の丸方面を。 |
ご利益は、所願成就なんだそう♪ |
 |
 |
 |