秋田県 沼舘城 |
■沼舘城、沼の柵本城跡=見学自由 ■蔵光院(ぞうこういん) 駐車場=無し(この時は路駐) (2010.9.25現在) |
住所=横手市雄物川町沼館 この時は、国道107号を西へ進み、県道13号へ右折。 郵便局を左折し、2本目の道を右折、沼の柵跡、小学校への 案内に従って左折。蔵光院付近の邪魔にならなさそうな所に路駐した。 |
沼舘城 | ||
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沼舘城は、戦国時代に当地方を支配していた小野寺氏によって 造営されたものであるが、その成立、消長には諸説がある。 奥州征伐の戦功により、源頼朝から雄勝郡の地頭職に任じられた 小野寺氏は、稲庭城を本拠として次第に勢力を拡大し、 要地要地に支城を築くようになる。 沼舘城は、13世紀後半に3代道有が、平鹿西部を管轄する 拠点とする為、清原氏滅亡後荒廃していた沼の柵本城跡を 修復し、重臣落合氏を配置したものであるという。 さらに版図が広がるにつれて小野寺氏は、稲庭では領国支配が 不便になり、16世紀前半には、13代稙道(…たねみち、 稚道、植道という系図もある)が沼舘城に本拠を移して 統治にあたったので、当地は雄・平・仙を結ぶ要衝の地として 発展した。稙道の子輝道はさらに本拠を横手に移し、 沼舘城には一族の大築地織部秀道(おおついじおりべひでみち)を 置いて城代としたが、小野寺氏が太閤検地に反対する一揆を 起こしたために、沼舘城も最上義光(もがみよしあき)らの 攻撃を受けた。大築地織部は小勢のため防ぎきれず、 天正18年(1590)10月、やむなく自ら城に火を放って横手本陣へ 退却し、沼舘城は世上からその姿を消す事になった。 沼舘城の推定規模は約七町歩(7ha)である。 本丸に比定される蔵光院の南・東端には、高さ6〜10m・ 幅6mの土塁があり、境内に井戸跡・文庫跡・庭園跡・ 皀英門(さいかちもん)跡などが推定されている。 二の丸に比定される沼舘小学校の西・北端にも、低い土塁が 残っており、校地内に武庫跡があったと言われる。 また、本丸と二の丸の境に「枯れずの沼」があり、三の丸に 比定される北東部には、舘小路・下小路・馬場等の地名が 残っている。 (雄物川町教育委員会の案内板より・絵図も) | ||
沼の柵本城跡 | ||
平安時代、応徳3年(1086)「沼の柵」合戦、 いわゆる「後三年の役」が起きた。 前九年の役後、奥羽二州(陸奥・出羽)を 清原氏一族が支配しており、真衡(さねひら)の死後、 陸奥六郡を清衡(きよひら)・家衡(いえひら)兄弟が 二分していた。 しかし、土地や人民に対して統制ある支配を行う ためには同族的連合の形では不可能になり、族長権を めぐって一族に不和が生じて起こった戦いである。 清衡は、朝廷から陸奥守に任ぜられて赴任した源義家 (八幡太郎義家)の加勢を得て、家衡のこもる沼の柵を 攻めたのである。水柵(四方を水で守られた柵)と いわれた沼の柵は簡単には落城せず、やがて激しい 風雪の中での戦いになった。 清衡・義家軍は大雪と寒さ、その上食料の欠乏にあい、 馬肉を食って飢えを凌ぎ、仮死状態の兵を懐に抱いて ぬくもりを与え、蘇生させたりしたが、多くの軍兵を 失い苦戦した。このように自然の要害に守られた沼の 柵を攻め落とす事のできなかった清衡・義家軍は、いったん 陸奥へ引き上げた。 その後、家衡は叔父武衡(たけひら)の進言により、 沼の柵よりも要害堅固の地である金沢の柵へ移る。 再び戦いが始まり、激しい攻防戦の後、清衡・ 義家軍は金沢の柵を攻め落とし、後三年の役は終わった。 清衡は清原氏の勢力をつぎ、藤原氏を名乗り中尊寺の 金色堂など栄華を極めた平泉三代文化の基礎を築く事になる。 (雄物川町教育委員会の案内板より) (写真)900年祭顕彰碑。 | ||
山門から本丸へ | 振り返って | 山門横(内側)の土塁 |
山門から境内に続く細道。 | 山門を振り返って、右側の土塁を。 | 外側もいいけれど、内側も素敵! |
蔵光院 | 低くなった所が | 本丸・南西の出入口 |
ここに本丸跡の石碑があった。 | 深くなった所が。何の跡かな。 | 本丸内を歩いて南西の外へ。 |
本丸・南西から | ||
二の丸方面(西側)を。 | 本丸南側を。堀跡がいい感じ♪ | 南西の景色。 |
本丸・北東の土塁 | 本丸・東側の土塁 | 本丸・北側の土塁 |
(左)沼の柵本城跡の標柱。 (真ん中)左の写真から東へ長く続く土塁。現存なのが凄いな。 (右)小学校側から。 | ||
二の丸 | 本丸南西から二の丸 | 蔵光院のごりやく君 |
小学校が立つ二の丸。 | 本丸南西から二の丸方面を。 | ご利益は、所願成就なんだそう♪ |
■沼舘城
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