【横手城】

秋田県 横手城 あきたけん よこてじょう
■横手城(別名=朝倉城、阿櫻城、韮城)
■横手公園
■横手城(展望台)=100円
開館時間=9時〜16時半
駐車場=無料駐車場       (2010.9.25現在)
住所=横手市城山町29−1
この時は、県道272号から案内板に従って 球場と高校の間を進み、奥の二の丸下の駐車場へ。

横手城
室町時代の後期、この地方には、豪族小野寺氏が 稲庭城に本拠を構え、仙北、平鹿、雄勝などを 支配下に治めていた。特に、16世紀半ばの小野寺輝道の 代には、小野寺氏の最盛期を迎え、秋田県南の大部分と 山形県北部までを治める戦国大名となった。現在の場所に 横手城が築かれたのは、輝道の頃とも伝えられ、町が整備 されるとともに、横手は商業、交通の要衝として発展していった。 しかし、16世紀後半、小野寺義道の代になると、隣接する 最上氏(山形)らによる侵略や、豊臣秀吉の太閤検地に より、石高を3分の2に減らされた。そして 1600年の関ケ原の戦いの際、西軍(石田・上杉方) についたとされ、徳川家康により領地没収の上、 石見国津和野(島根県)に配流された。 翌7年、佐竹氏が水戸から秋田に転封されて入部した時、 城を築き、替え城代に伊達氏を、後に須田氏次いで戸村氏が、 代々城代をつとめた。 秋田久保田城の支城として、県南の中心的守堡としての 要衝の役割が大きかったのである。 幕末戊辰の役には、勤皇秋田藩は佐幕派の奥羽諸藩の 軍が侵入し、明治元年8月11日、仙台庄内の軍勢が 朝倉城に迫り、防戦したのだが、遂に利無く寄手の 砲火によって城は炎上、勇士21名は討死、 名城と言われた朝倉城は全く灰燼に帰し、落城した。 (横手市の案内板より)
駐車場 二の丸方面へ 武者溜り
(左)二の丸下の東側の駐車場を利用。 (真ん中)案内板の裏の道から二の丸方面へ。
(右)駐車場側から上がると、噴水がある武者溜りへ到着。 北側が二の丸・模擬天守へ、南が本丸へ。
二の丸
(左)武者溜りから。小高い 二の丸を。木が凄い…(^^;) (真ん中)二の丸。 (右)天守から北上方面。下に、二の丸。
模擬天守
模擬天守からの景色
(左)パノラマっぽく加工。西側(本荘方面)。横手川と鳥海山。 (右)残念ながら、鳥海山は雲で隠れてた。
(左)パノラマっぽく加工。北側(秋田方面)。上の写真の右側で、鳥海山の右側。 (右)ふんわりして素敵。
大手門跡 七曲り 犬走り
(左)武者溜りから本丸(正面)。右側に、七曲り。 (真ん中)江戸時代当時のままの登城口。 (右)左の写真の左側。
武者溜りと本丸の間
(左)二の丸の模擬天守から見下ろして。こんもりした所が本丸。 (真ん中)武者溜り側から。 (右)堀切っぽい雰囲気。
本丸虎口
(左)素敵な土塁の間から、小高い本丸へ♪ (真ん中)振り返ってもいい感じ〜♪ (右)本丸へ。
本丸
東西47m、南北77m。周囲を腰曲輪が巡る形態は、 中世小野寺氏時代から戊辰の役の落城まで引き継がれた。 (標柱より) (左)秋田神社が立つ本丸。 (真ん中)朝倉城本丸跡の碑。不思議な形…。 (右)朝倉城跡碑。
■秋田神社…秋田神社は、明治12年(1879)秋田神社の分社として建立。 佐竹藩初代藩主の佐竹義宣と共に佐竹義尭が祀られ ている。また、神社には戊辰戦争で焼け残った二の丸 表門の一部を使用。御神体は佐竹家伝来の短刀。
本丸下の腰曲輪 牛沼
(左)本丸北側。 (真ん中)本丸東側下の腰曲輪の土塁と、 その下にも腰曲輪(写真)がある。 (右)朱塗りの橋♪
遠景 紅葉 街灯
(左)曇りだったから、微妙な写りに…(^^;) (真ん中)一部、とてもきれいな紅葉が♪ (右)付近の街灯を。

■横手城
駐車場から城跡へすぐなので嬉しい(^^) こじんまりしているし、標柱が立っていて、 見学がしやすくていい。 土塁も素敵だし、天守からの眺めも良くて♪ 天守内のクイズ形式の説明や階段の 消費カロリー表示とか、ちょっとした所で 楽しめるのが好きだった(^^) ちなみに、見学時間は約40分。

【 秋田のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る