トロとまったり・tripのページ(高野長英の居住地・穂積橋)

愛媛県 高野長英の居住地

えひめけん たかのちょうえいのきょじゅうち

■高野長英の居住地(高野長英の隠れ家)=見学自由
駐車場=駐車場無し

2015/7/2現在

住所=宇和島市新町2丁目
この時は、国道320号を宇和島駅方面へ進み、 国道56号との栄町港交差点を過ぎ、恵美須交差点信号の次の信号を右折。 一方通行を進んで、辰野川に架かる穂積橋を渡って左折(ほづみ亭の所)。 左側(道に出る手前に近い)に高野長英の居住地がある。

高野長英の居住地

高野長英(1804〜1850)号は瑞皐。幕末の蘭学者。陸奥水沢(現在の人)。 長崎に赴き、シーボルトに医学・蘭学を学び、のち江戸で開業した。 そこで、渡部崋山らと知り合った。幕府の対外政策を批判する「夢物語」を発表したため、 蛮社の獄で投獄されたが、出火に乗じて逃亡した。 嘉永元年(1848)、宇和島藩主伊達宗城は彼の才能を惜しみ、 ひそかに宇和島に呼び寄せ家老桜田佐渡の別邸(現在地)に居住させた。 長英はここを五岳堂と名付け、選抜された数名の青年藩士に蘭学を教授し、 また、藩のために蘭書の翻訳に務めた。城辺(愛南町)の久良砲台の設計築造にも従事した。 しかし、所在を幕吏に知られて翌年宇和島を去り、卯之町へ逃れたのち、江戸に潜入。 嘉永3年(1850)、幕府の捕手に囲まれて自刃した。 受難の先覚者である長英に学び、宇和島の青年藩士が未知の西欧学問の解明に励んだ学塾の跡には、 長英の同郷の後輩、後藤新平の筆になる碑が建てられている。 この建物は、明治以降に建てられたもので、礎石は江戸時代のものをそのまま使用し、 平成23年に明治の建築様式で復元修復したものである。 (宇和島市教育委員会の案内板より・絵は宇和島市観光協会の案内板より)

【左】後藤新平の書の「瑞皐 高野長英先生居住之地」の碑。
【真ん中】高野長英の居住地の標柱も立つ。
【右】辰野川側から。奥が穂積橋。

穂積橋

この穂積橋は、郷土の発展に終生貢献された穂積陳重(ほづみ のぶしげ)男爵の御功績を讃えて昭和4年に命名されたものである。 穂積陳重先生は、安政2年(1855)市内中ノ町(今の京町)に生まれ、幼少より俊童の誉れ高く、 若くして英独に留学し法学を研鑽、帰国後は、東京大学で教鞭をとり、法学部長を勤め、 法典調査会主査委員として明治民法戸籍法を編纂するなど、民法生みの親といわれた。 明治24年(1891)の大津事件では「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」 と進言して大審院長児島惟謙を支え、後年には枢密院議長となり、男爵を授けられた。 また先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、 出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育された。 この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の設立を申し出たが、 「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退された。 それ故、改装中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、 それなれば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものである。(宇和島市の案内板より)

【左】穂積橋と碑。ちなみに、前日にほづみ亭の鯛めしを食べた♪美味しかった〜!
【右】橋の袂のガス灯。素敵!
【左下】辰野川に架かる橋。奥が穂積橋。
【下真ん中】穂積橋付近の「老生は銅像にて仰がるるより 萬人の渡らるる橋になりたし 穂積陳重」の碑。
【右下】穂積橋からの辰野川。ほづみ亭の建物が、眺めを一層素敵にさせている(^^)

高野長英の居住地を目当てに来たら、穂積橋の説明板や碑等があったので、車中から急いで撮影(あると思わなくて…。) 説明板によると、穂積陳重さんは凄い功績を残しているのに、 「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」と意思を残していたんだとか!格好いいな〜(^^)

高野長英の居住地・穂積橋 2015.7.2記

高野長英の居住地への道中、下調べをしていない穂積橋の由来や碑を見つけ、慌てて車中から写した(^^;) 穂積陳重さんがいかに凄いかを知ることが出来たから、写しておいてよかった…。 (ちなみに、穂積陳重、八束兄弟の生家長屋門は、宇和島城に移築されている。) 高野長英の居住地は、ここだけが異空間という感じだった。 ところで前日の夜、穂積橋横にあるほづみ亭(外観は敷居が高そうだけど、手軽に郷土料理や魚料理が食べられる。)で鯛めしを食べた♪ 宇和島の鯛めしは、鯛の刺身をだし汁で漬け込み、その中に入っている生卵をとかして、ご飯にかけて食べるというもの。 この生卵が凄くプリプリ濃厚で、たくさん食べてしまった。ご飯が御櫃で出てきた時は驚いたけど、納得(笑) サザエの刺身も美味しかった〜♪

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