福井県 北ノ庄城 |
■北の庄城址公園、柴田神社=見学自由 ■北の庄城址資料館=見学自由(9時〜18時) 駐車場=近辺の有料駐車場 (2006.5.2現在) |
住所=福井市中央1-21 県道30号を南へ進み、幸橋北詰信号を左折。 少し進むと左側に「北の庄城」有料駐車場の看板があって、 そこを左折。左側にその有料駐車場があって、 北の庄城へは、その道を進んで右折し、右側に奥まって 鳥居があるので、そこを歩いて行く。 今回駐車したコインパーキングは、通り過ぎて少し先の左側。 ちなみに、県道5号から西に進んだ場合、北の庄城址公園への道に 入れないので、県道30号からがオススメ。 |
北庄城跡 | 福井城跡 |
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確認した堀は、大規模な城郭の一部であるが、吉野川(のちの百間堀)と堀を東からの防御と
していた城郭の構造であったとうかがえる。また、福井城の築城により、
破壊を受けてその全貌が失われてしまっている事が分かった。(案内板より) こうやって並べて見てみると、勝家さんと結城さんの時では全然違う。 遺構だけ見ると、頭の中では想像し難いけど、 資料館でこんな風に説明してくれるのは嬉しい(^^) |
堀によって遮られる北と南の区画(曲輪)、その曲輪間をつなぐ道(土橋)を 確認した。曲輪には城内に向かう道に面して家臣団の武家屋敷が立ち並ぶ。 調査で確認した道は、南の曲輪から堀を渡り、互い違いの高石垣をぬける かね折れで城内に通じている。この様な構造は、南からの敵を防ぐ事を 目的としている事がうかがえる。南から眺めてみると、手前の高石垣に 視界を遮られ、門は見えない。奥の高石垣の裏には階段が設けられ、 迎え撃つようになっている。(案内板より) |
柴田勝家(?〜1583) | ||
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勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。
天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、
越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な
天守閣を造営。
信長の亡き後、天正11年(1583)4月、
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、
同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方と共に自害した。
墓はお市の方と共に、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と
伝えられる。 「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」 (案内板より・画像/千葉市・柴田勝次郎氏蔵・東郷靖夫氏の模写) |
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お市の方(1547〜1583) | ||
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、
政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、
1男3女をもうけた。
天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に
嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。
勝家はお市の方に娘と共に城を出るよう諭したが、
お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、北ノ庄城で夫婦
静かに盃を交わし、
辞世の和歌を残して自害した。
画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」 (案内板より・画像/重要文化財 高野山持明院蔵) |
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茶々(淀殿)(1567〜1615) | お初(藤子)(1568〜1633) | お江(小督)(1573〜1626) |
お市の方の長女茶々は淀殿とも呼ばれた。 母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘を ともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に 敗れた時、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に城から逃れた。 茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康 の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼と共に大坂城中で自害した。 享年49歳と伝えられる。(案内板より・伝淀殿画像/奈良県立美術館蔵) | お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、後に 従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、 若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。 慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃から度々淀殿を 訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け大坂城に使者として入り、 姉淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633)8月27日江戸において死去。 享年66歳と伝えられる。(案内板より・画像/小浜市・常高寺蔵) | 三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。 秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代将軍に、次男忠長は 駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は 加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いでいる。 四女初姫は京極忠高室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。 寛永3年(1626)9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。 (案内板より・画像/東郷靖夫氏の模写) |
九十九橋 | ||
九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋。
(半石半木=橋の南半分が石で、北半分が木で造られるという
構造)この橋が架けられていたと言う記録は朝倉時代にもあるが、
半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図などの研究から勝家公だと
考えられている。
江戸時代前期(貞享2年・1685)の「越前国地理指南」では「大橋
長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋四拾一間」と記載されている。
石橋の部分は全て笏谷石で作られ、橋脚の長さは立てる場所によって
異なるが、2.5〜2.8mと推定されている。
また、半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていた。
九十九橋の架け替えは、江戸時代に10回以上行われ、明治7年(1874)に
半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われている。
木造トラスの橋に架け替えられたのは明治42年(1909)。(案内板より) (↑半石半木の橋をイメージして再生。欄干部分は往時から残されていた旧石材を使用) (舟橋の鎖=勝家公が舟橋で用いた鎖(「刀さらえ」で集められた武器を 利用して作ったそう…↓) |
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■北ノ庄城
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