ふくおかけん へさきとうだい
■部埼灯台=見学自由(外観のみ)
駐車場=微妙
2004/8/14現在
住所=北九州市門司区大字白野江字部埼20番地
関門自動車道 門司I.Cから白野江方面の72号を走り(途中まで看板あり)、
途中で海沿い側の道(海上保安学校門司分校を過ぎて)を走る。
途中から工事中で、立入り禁止と書いてあるけど、車1台分開いている。そこを抜けて採石所を過ぎた辺りまで進む。
すると白い巨大な像が堤防横に建っている。そこまで行くと行き過ぎで、手前の
山側に石の階段があるので、そこを上がって行くと、部埼灯台がある。
■施設の概要(周知板より)
位置 北緯33度57分22秒
東経131度1分31秒
塗色及び構造 白色 円形 石造
光り方 3等小型 連成不動閃白光
毎15秒に一閃光
光の強さ 不動光7千カンデラ
光の届く距離 17.5海里(約32km)
高さ 地上〜頂部9.7m/水面〜灯火39.1m
1日に千隻以上の船が出入りするといわれる関門海峡の、 東の玄関口に当たるこの灯台は、慶應3年(1867)4月、幕府が 兵庫開港に備えて英国公使と約定した五灯台(友ヶ島、江埼、和田岬、六連島、部埼)の一つである。 英国人技師R・Hブラントンの設計によって(英国における灯台の権威者スチーブンソン兄弟の設計をもとに)建設された重厚な石造り の灯台で、明治3年12月に起工し、同5年1月22日初点灯した。 当初の灯光は三等不動レンズによる「不動光」であったが、 明治28年にフランスから輸入した回転式のレンズに改め、複雑なレンズ構成により 今日まで「連成不動閃白光」を発し続けている。白御影石造りの灯塔や付属建物は、 120年余を経た今なお明治の面影を留めている。
【左】凄い人なんだなぁ…。最初見た時は、何!?って思ったけど(笑)
かなり大きいし!海を見ているから顔が見えなくて気になる…。
【右】下りる事も可能っぽいけど、堤防で阻まれてて船からしかダメみたい。
ちなみに、足元の石碑の下にロープがぶら下がっている(^^)
■僧清虚の偉業… 九州の最北端に位置するこの地、部埼(門司区青浜)はその昔、狐埼、念佛埼と呼ばれた航海の難所だった。 天保7年(1838)大分県国見町の竹田津港から下関経由、高野山に修道に向かう途中、 便船に乗りあわせた旅僧清虚(俗名太兵衛-大分県東国東郡国見町出身)(1777〜1850)は、 船客が数珠を手に念仏を唱えるのを見て何とかこの難所から多くの人命を救おうと燈明台を建て火を焚き続ける事を決心。 船頭に頼んで青浜に上陸し、山の中腹で13年の長い間、雨の日も風の日も、 読経とともに燈明の火を絶やさず焚き続けた。 清虚は日中托鉢で得た糧を焚料にし、1日1食の生活を続けた。 これを見た人々は一食坊主、乞食坊主と蔑んだが、それもいつしか村人の心を動かしはじめ、舟人達も協力するようになった。 こうして、74歳の高齢で村人達の見守る中で世を去った清虚の偉業も、没後、村人利三郎によって受け継がれ(11年間)更に、 庄屋に受け継がれて火は焚き続けられた。明治5年1月、今の洋式灯台が建設をみるまで、暗闇の海を照らす目の役割を果たした。 清虚は青浜の墓地に葬られ、頌徳碑も昭和14年に墓前に建てられた。灯台下の僧の大きな立像は、 昭和47年に故田中美佐人氏ら有志により海辺に建てられ、毎年秋には、この地で白野江清福寺住職を招き、顕彰法要が営まれている。 (北九州門司ライオンズクラブの案内板より)
部埼灯台 2004.8.14記
最初は、順調に案内板も出ていたから進めたけど、途中から怪しげに(^^;) 「あれ?こっちでいいの?」という雰囲気になりながらも、ギリギリ車で進む。 途中からは歩いて行くんだけど、通り道の犬が凄い勢いで「ウォンウォンッ!」 吠えるから、側を歩くのが怖かったけど近くなると全然吠えなくなった。ナゼ? 灯台へは生い茂る木々の中に階段があるんだけど、分からず、途中で道が無い!! なんて思ったりした(笑)ちゃんと階段は続いていたのに(笑)危うく、草の中に入りそうだった(^^;) ちなみに、この時、堤防沿いの道は、きれいにしている最中で、工事の終了時期が来年あたりだった。 (確かH17年3月?) だから、灯台への道が、もっとわかりやすくなってるかも。 ちなみに、この灯台は、石川県の能登の禄剛埼灯台に、凄く似ている。 さすが、同じR・Hブラントンの設計。石造りも一緒(^^)