ふくおかけん じょうじまじょう
■城島城
■天満神社、城島小学校
駐車場=無し
2015/12/27現在
住所=久留米市城島町城島
この時は、県道133号を南下し、山ノ井川を渡り、県道15号との城島中町信号で県道15号を西へ。
1本目の路地を左折、南下すると右側に城島天満宮、その奥に城島小学校。
この城は筑後川左岸の自然堤防上に、西牟田家周(にしむたいえちか)が天正11年(1583)に初めて築いた平城である。 天正14年(1586)島津義久が筑前の立花城、岩谷城を攻撃する際手始めにこの城を攻めたので、家周は肥前の龍造寺氏のもとに逃亡した。 天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂が領主になると家臣薦野増時(こものますとき)が入城した。 立花氏は関ケ原の戦いでは西軍に加わり、戦後改易された。 慶長6年(1601)田中吉政が筑後一国の領主として入国し、家臣宮川讃岐が城主となり城郭を完成し、讃岐の死後は宮川十丸(じゅうまる)が城代となった。 西牟田家周の頃の城の縄張りなどは不明だが、田中吉政の頃には、城は平地より2m高く、面積約100a、湿地を天然の要害としたものだった。 本丸は東西69m、南北69m、周囲に堀がめぐり、二の丸は東西87m、南北58m、それを囲むように侍屋敷・鉄砲屋敷を配置し、 その東側に町屋を置き、また、要所の3ヶ所に櫓を築き、それをまた堀で囲むという三重の堀を持つ構造だった。 西側の防衛は筑後川を利用していたと考えられる。 元和6年(1620)、田中氏断絶と共にこの城も廃城となり、石垣・材木などは久留米篠山城の修理に使用され、いまは本丸の礎石が1つ残っている。 城跡には、天満神社や城島小学校が建ち、付近には城内・鉄砲町などの地名がある。 大正1年(1912)まで、小学校の周囲に堀が残っていたが、埋めて運動場を拡張したため、現在遺構は残っていない。 なお、天満神社境内に小一郎神社の小さい社があるが、これは昔城島城の主将城島小一郎をまつったもので、 伝説によれば、城島城落城の際、16歳であった小一郎は城兵の身代わりとなり切腹したと伝えられ、 毎年旧11月16日を祭礼日として祭典を行っている。 また、天満神社の二の鳥居は明神鳥居系の台輪鳥居といわれるもので、 柱には柳川藩の儒学者安東省庵(あんどうせいあん)の元禄10年(1697)の銘文があり、神社創建当時のものと考えられ、城島町指定文化財である。 平成15年3月1日 (城島町教育委員会の説明碑より)
【左】道中に見かけた県道133号の山ノ井川に架かる入道淵橋。お酒を造るモニュメントらしい。走行中なので、レリーフまでは写せなかった…。
【真ん中】城島天満宮の東側へ南下。写真右奥が城島天満宮。
【右】天満宮の東側の水路。
■城島天満宮鳥居… この鳥居は元禄10年(1697)時の大庄屋大石家から献納された明神鳥居系の台輪鳥居である。 明神鳥居は両柱にかけわたした笠木(上)島木(下)の左右の先端が上方に向かって沿っている鳥居で、柱の上部に台輪がはめ込まれたのを台輪鳥居と呼んでいる。 台輪は重い島木を支える石柱に衝撃を少なくさせるための工夫といわれる。 柱には、柳川藩の儒者安東省菴の銘文があり、日本人の精神生活の原点を示されている思いがし、この鳥居の付加価値をより大きなものにしている。(案内板より)
【左】鳥居と「城島城跡」の標柱。字が消えそう…。
【真ん中】境内側から鳥居を。奥の方は侍屋敷だったんだろうな。
【右】楼門の手前にある城島城跡の碑と説明碑。
とても静かな神社だった。小学校がある時は賑やかなのかな(^^)
【左】天満宮から南側の小学校を。
【真ん中】小学校の南東のT字路。
【右】T字路から小学校の南側の道を。
【左】城島小学校から南方面にある町民の森公園。
少し気になって寄ってみたけど、駐車場にある案内板を見て、結構広そうだったので散策はしなかった(^^;)
【真ん中】公園の西側を流れる宇田貫川。
【右】案内板にいた鳥。
【おまけ】下田城へ向かう途中に撮影。城島町だったので、ここで紹介。
【左】県道701号の内野信号で信号待ちをしていたら、鬼瓦を発見!
【右】(切り取り加工)左の写真の右側。鬼瓦が置かれていた(^^)
城島城 2015.12.27記
城島天満宮と小学校が城跡なので、城島天満宮を見学。 城址碑と説明碑があるのでよかった♪ちなみに、見学時間は約3分。