ふくおかけん しおつかじょう
■塩塚城
■宗樹寺・蒲池氏百八人塚
駐車場=駐車場無し
2015/12/28現在
住所=柳川市大和町塩塚
この時は、国道208号と県道714号との塩塚交差点を西へ、三叉路を南へ、2本目の路地を左折。
東に少し進んだ所の左側、民家の手前に城址碑がある。
近世初頭の平城で、本丸の規模は、東西十五間(27m)、南北十四間半(26.1m)だった。 天正年間(1573〜91)、柳川城主蒲池鎮並(しげなみ)(鎮漣)の一族塩塚石見守がこの城を守った。 天正9年(1581)5月27日、佐賀城主・龍造寺隆信は、佐賀の与賀で鎮並を謀殺、 その勢いで翌28日、鎮並の弟統安(むねやす)が守る柳川城を攻め落とし、さらに6月1日、 統安の二男塩塚鎮貞(しげさだ)が守る塩塚城を鷹尾城主・田尻鑑種(あきたね)と共に攻めた。 鎮貞ら一族は、ことごとく討ち死にし、城はついに落ちた。 (蒲池氏百八人塚にある大和町教育委員会の案内板より)
【左】宗樹寺・蒲池氏百八人塚の北東方面にある城址碑。
【真ん中】左の写真の右側の水路を西から。
【右】左の写真の右側の少し奥まった所の水路。
【左&真ん中】城址碑の他に、なぜか模型もあった。
【右】城址碑側から南西にある宗樹寺・蒲池氏百八人塚方面。
【左】宗樹寺の蒲池氏百八人塚。ここに、塩塚城の説明板がある。
天正9年(1581)5月28日、蒲池統安(むねやす)が守る柳川城が落城の時、 鎮並(しげなみ)夫人玉鶴姫を始め、子息・侍女ら108人は、統安の二男蒲池鎮貞(しげさだ)が守る塩塚城へのがれた。 6月1日、塩塚城は、佐賀城主龍造寺隆信と鷹尾城主田尻鑑種に挟み撃ちにあい、落城した。 108人は、最初の間、少し東の蒲原に隠れていたが、ついに自害または殺害された。 後日、遺骸を宗樹寺の前に集め、弔ったのが百八人塚である。 玉鶴姫の遺骸は本堂の横に埋葬し、その上に若宮神社を建立、のち下塩塚の住吉宮に合祀したと伝えられている。(大和町教育委員会の案内板より)
【左】写真右側が、宗樹寺の百八人塚。横の水路。
【真ん中】左の写真の水路。
【右】百八人塚から城跡方面。
塩塚城 2015.12.28記
塩塚城の城址碑の西側の道はそうでもないけど、東側は狭いので、広めの所に車をとめて徒歩で向かった。
周囲は田んぼで、なぜか城址碑の横に立派な城の模型があった。
宗樹寺の蒲池氏百八人塚は、気持ち的に写したくなかったので、その裏側にある説明板
(城址碑の所には無くて、蒲池氏百八人塚の方に説明板があった。)だけを写した。
田んぼにお墓とお堂があったけれど、関係があるのか無いのかは、遠くから見ただけなのでよく分からなかった。
ちなみに見学時間は、城址碑と蒲池氏百八人塚と車の移動時間を合わせて約10分。
(写真)車内から塩塚駅を。