ふくおかけん すいてんぐう
■水天宮
■眞木和泉守の銅像
駐車場=無料駐車場
2015/12/27現在
住所=久留米市瀬下町265-1
この時は、久留米駅の南側の県道753号の水天宮入口信号で、水天宮通りへ西へ。
突き当りが左カーブになる手前の道を右折、北東へ進んで行くと左側に駐車場がある。
(※多々あるが、時期によって開放されていないよう。)
全国総本宮の水天宮。水難除け、子授け、安産にご利益がある。
【左&真ん中】鳥居周辺は、年末年始に向けての露店を設置中だった。
【右】鳥居から参道を進んで…。
【左&真ん中】石橋を渡ると、唐門があり、くぐると本殿がある。
【右】筑後川を見下ろして。
眞木和泉守保臣(1813〜1864)は明治維新の中心的指導者である。
水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、
藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊池一族の誠忠を語り、
少年の時に愛読した絵本楠公記は尊王愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学職を深め、しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、国事につくし諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国事情にも通じ、久留米の医学刷新につくし、
久留米藩医学館の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長州藩と共に倒幕の軍を起こし、禁門の変に敗れ、
同志16人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。
大山(おおやま)の峰の岩根に埋(うめ)にけり わが年月の大和魂(案内板より)
眞木和泉守保臣(やすおみ)先生は同志と共に久留米藩を改革しようとして却って、
この地を南に去る十六粁水田村(現在の筑後市水田区)、弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。
その翌年庭の一隅に小さな家を建て、山梔窩と名付け自炊の生活を送りつつ、付近の子弟を教育し、
後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。
これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。
また平野国臣を始め諸国の同志の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、朝廷に上書するなどこの山梔窩は尊王倒幕の一大策源池となった。
幽居11年辞世の急迫と共に
やがて世の春に匂はん梅の花 かた山里の一重なりとも
一種の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。
この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。(案内板より)
眞木和泉守保臣命を始め、明治維新に際し、国難に殉ぜられた一門及び門下生、 天王山にて眞木保臣先生と共に国難に殉ぜられた十六烈士が祀られている。(案内板より)
【切り取り加工】水天宮側からで、左側が瀬ノ下渡し跡方面、右側が長門石町方面。
九州一の長さを誇っている「母なる川」清流筑後川は、その源を阿蘇外輪山の一角に発し、 熊本、大分、福岡、佐賀の4県を曲流蛇行して、不知火と潮の干満差で知られている有明海に注いでいる。 「筑紫次郎」という異名を持ち、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と共に、日本を代表する三大河川として知られている。 また千歳川、一夜川とも呼ばれているが、現在の様に筑後川と呼ばれるようになったのは、寛永年間(1624〜1644)のことである。 この川は、全国河童の総帥「九千坊」のふるさとでもあり、流域には数々の河童の伝説がある。 また、毎年8月5日にはこの地で花火大会が盛大に催され、その規模は西日本一を誇り数万発の花火が真夏の夜空を七色に彩る。 (久留米市、(財)久留米市観光コンベンション協会の案内板より)
水天宮 2015.12.27記
すぐ近くにある瀬ノ下渡し跡と、水天宮の境内の眞木和泉守の銅像を見に来たのだけど、水天宮は全国総本宮という凄い所だった♪ 子授け、安産にご利益があるそうで、お腹の大きな女性が参拝に来てるな…と思ったらそういうことだったんだ(^^) ちなみに見学時間は、水天宮と境内の散策+瀬ノ下渡し跡で約8分。