二本松城
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二本松城は、室町中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、
以後畠山氏歴代の居城として140年余り続き、天正14年(1586)伊達
政宗の執拗な攻撃により落城した。豊臣時代、当城は会津領主となった
蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を
与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として
機能し始めた。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配化に
あった。
寛永20年(1643)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重公が
10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として
220余年続いた。しかし、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、
西軍との徹底抗戦で城内や家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城した。
(案内板より)
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霞ヶ城祉石碑と箕輪門&二本松少年隊 |
■二本松少年隊…
慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の
兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。
この緊迫した状況の下、少年達の出陣嘆願の熱意に、藩主は止む無く出陣許可を
与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・
大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、
正午頃二本松城は炎上し落城した。
この二本松少年隊群像は、大義の為戦う隊長及び少年隊士と、我が子の
出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感
迫る思いで縫い付ける母の像を表わしたものである。
なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、
少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
(二本松市の案内板より)
像の1人の片目が剥げて、目が合っているみたいで、
微妙に怖かった…(・_☆)
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箕輪門(表側&裏側) |
箕輪門は二本松城=霞ヶ城の正門にあたり、江戸初期城主
丹羽光重の建造である。城下箕輪村山中にあった
樫の大木を主材としたのでこの名がある。
聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は10万石大名の
威容を示していた。戊辰戦争によって灰燼と帰したが、
再建の声高まり、年余の歳月と二億円の費を投じて
昭和57年8月に完成をみた。(二本松市の案内板より)
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桝形 |
瓦に直違紋(すじかいもん) |
桝形虎口 |
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三の丸 |
山田脩翁銅像 |
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公園中央広場には丹羽公居城跡地で、戊辰戦争後、明治6年日本最初の
民間機械製糸の草分け「二本松製糸株式会社」が創立された所。
彼は、明治10年に単身渡米し、遂にニューヨークに直売所を設け、
「二本松生糸」の名票を付けて販売するに至った。また、
製糸業を通して地方の発展にも貢献した。(案内板より)
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本丸の石垣 |
本丸の桝形虎口 |
本丸の桝形虎口から東櫓台へ |
復元だけど、石垣がかっこいい〜♪
よくここまで復元してくれたなぁ。凄いなぁ。
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東櫓台に上がると… |
本丸跡(右に見えるのは西櫓台) |
本丸から見た景色 |
どうでもいいけど、本丸までなだらかな坂を歩いていたら、1台の車がいた。おじさんと若い女の人が乗ってて、
座席を倒しているように見えた。うちらが横を通ったら、おじさん、ガバッと起きたけど、何してたの?穴場?(笑)
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天守台&天守台からの景色 |
山の上からだけにとっても眺めがいい(^^)
気持ちよかったな〜。桜もまだ残っている部分があっていい感じ。
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天守台から西櫓台へ |
西櫓台 |
西櫓台に上がると… |
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現在の本丸の石垣(下部中央) |
本丸の石垣(下部中央)の移築展示 |
築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、
その積み方は慶長初期の古式「穴太積み(あのうづみ)」。
二本松城に築かれた、最も古い石垣の1つ。左右端部周辺、
及び中央上部は江戸後半期に積み直されたが、「穴太積み」石垣
は約130石ほど残存していた。しかし、石材が復元・修築不可能な
状態な為、下部の石垣は新しい石材での復元。旧石垣は後世に伝える為、
「穴太積み」の特徴を最も残している長さ約12m、高さ約2.5mの
範囲を現状の段差地形を利用し、移築展示した。(案内板より)
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天守台下西面二段石垣 |
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この石垣は以前から一部分が露出していた。平成6年11月、
本丸石垣修築復元工事と併せて発掘調査を実施、
全体の姿が確認できた。
石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、上・下段ともに
天端左側の一部分が欠落していた。築石は野面石(自然石)
を主体とし、一部荒割石が用いられ、その積み方は古式の
「穴太積み(あのうづみ)」。大小の石材をレンガをねかせる
用に横積みし、数石しか横目地の通らない、いわゆる「布積み崩し」
の積み方。(案内板より)
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本丸下南面大石垣(左の写真=右上に本丸 / 右の写真=石垣のアップ左側が穴太積み) |
二本松城に築かれた、最も古い石垣の1つ。築石は野面石(自然石)
と荒割石が用いられ、積み方は古式の「穴太積み(あのうづみ)」。
大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、
数石しか横目地の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方。
勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を
主体に構築されている。天端付近は積み直された形跡があり、
本来はさらに数段高い石垣であったと考えられる。
二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷(がもう うじさと)
に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣である。
(案内板より)
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搦手門跡 |
霞ヶ城石碑 |
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城の裏面にあたる門の事で、現在は石垣及び門柱を建てた
礎石のみ。この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590)
頃に建てられ、その後に何度か修改築された事が絵図等でわかる。
一般的に城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固だが、
裏面(搦手)はそれに比べて弱いところからこの語の起源になっている。
(二本松市の案内板より)
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記念碑は、昭和28年に施工された本丸入口左側
石垣修復を記念として、奥州探題・畠山氏末裔である
二本松氏により、昭和30年に入口左側に建立された。
平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、
当所に移設した。(二本松市の案内板より)
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