岐阜県 大垣城 |
■大垣城 ■大垣公園=見学自由 観覧料金(天守内)=大人100円 開場時間=9時〜17時(入場は16時半まで) 休場日=毎火曜(祝日の場合翌日)祝日の翌日 12月29日〜1月3日 駐車場=なし(近隣有料駐車場利用) (2008.10.12現在) ※ここでは、2004.9.18と2008.10.12の写真を使用。 |
住所=大垣市郭町2-52 (この時は)名神高速道路大垣I.Cから国道258号を大垣市街方面へ。 国道258号の禾の森町交差点を過ぎて、次の大きな交差点(旭町)を左折 (左は中電、右側にTHE GRAND TIARA/大垣高砂殿)、3つ目の信号を過ぎた辺りから、 右側が大垣公園。 |
大垣城 | |
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大垣城は古く応仁年間(15世紀)には東大寺城と呼び、当時の城主は 大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職を していた大垣氏であったらしく、大垣城というように。 その後天文4年宮川安定が城郭を築き(明応9年竹腰尚綱の築城とも伝えられる) 弘治2年大垣城主氏家卜全が、城郭の建築工事を施した。 天正13年(1585)9月豊臣秀吉は、一柳直末を大垣城主として 天守閣の造営を命じた。この工事は天正16年7月になって完成し、 その後改修を経て、以来この天守閣は4層4階建て総塗りごめ様式で 大変優美な城として名高く歴史上貴重な城であった。 昭和11年(1936)国宝に指定、郷土博物館として親しまれたが、 昭和20年7月29日戦災で惜しくも焼失。その後、大垣城再建の 気運が高まり昭和33年5月着工。翌34年4月、外観を昔そのまま の姿で竣工したのが今の天守閣。(案内板より) |
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牛屋川を天然の外堀に取り入れた要害堅固な平城。
慶長5年の関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり、壮絶な攻防戦が
繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に
天下泰平の世を謳歌した。
■戸田大垣藩の誕生… 関ヶ原合戦を契機に近世・江戸時代となり大垣城は、 「戦いの城」から「行政の城」にと生まれ変わった。 慶長6年(1601)石川康通が5万石で城主に任命された。 その後の寛永12年(1635)戸田氏鉄(うじかね)が、 攝州尼崎より入封するまでの35年間に石川三代、 松平二代、岡部二代、松平一代と徳川将軍に忠誠を尽くした 武将が栄転してきてはまた去っていった。大阪冬・夏の陣を 経て徳川幕府の基礎が固まってゆくと共に、大垣城が 争奪の的となることも無く戸田氏大垣藩は西美濃に君臨して、 明治の版籍奉還まで235年太平の世が続いた。 (左上)左より戌亥櫓と天守と戸田氏鉄公騎馬像。(2004.9.18撮影) (右)戸田氏鉄公騎馬像。雨が冷たそう。(2004.9.18撮影) (左下)江戸時代初期(寛永15年頃) 島原の乱当時の大垣城絵図 (右下)大垣城本丸城郭図 (絵図2枚=2008.10.12撮影) |
東門(大小姓多門跡) | ||
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旧柳口門を移設。 (左)雨の日。(真ん中)十万石祭りの日。 (真ん中=2008.10.12撮影。他2枚=2004.9.18撮影) | ||
丑寅櫓 | ||
再建。(左)北東。(真ん中)東。 (右)本丸側。お祭りだから、無造作に箱が置かれてた(^^;) (2008.10.12撮影) | ||
東側の堀の名残り | 丑寅櫓から戌亥櫓方面 | 水之手門跡 |
(右)戌亥櫓(右側)横の門跡。ずっと兄ちゃん達がいる…。 顔が見えないからいいよね(^^;) ('08.10.12撮影) | ||
戌亥櫓 | ||
再建。(左)北西。(真ん中)北。 (右)本丸側。人目に付きにくいからか、 高校生カップルがいた…。 ('08.10.12撮影) | ||
戸田氏鉄公騎馬像 | 天守 | 西門 |
(2008.10.12撮影) |
(左)15時頃の戸田公。顔がよく照らされてたから、よく見えた〜(笑) (真ん中)天守と騎馬像。(2008.10.12撮影)1番上で使用した写真も天守。 (右)この辺りに、門は無かったみたいだけど、一応、紹介。(2004.9.18撮影) |
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七間多門跡(奥)&鉄門跡(手前) | 辰巳櫓跡 | |
南側にある鉄門跡。前回は雨で真っ暗だったなぁ。 写真は、東へ向かうように紹介(^^) (3枚=2008.10.12撮影。) | ||
東埋門跡 | 本丸東側の石垣 | |
(左&真ん中)凄く幅が狭い門跡。石がゴロゴロしていて、 こけたら痛そう(^^;) (3枚=2008.10.12撮影。) | ||
関ヶ原の合戦と大垣城 | ||
慶長5年(1600)石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つ為 東上して美濃の国に入った。時の大垣城主、伊藤盛宗は豊臣家の家臣で、 西軍に属していた。そこで三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、 付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集るのを待った。 ところが、東軍の進出が余にも早く、美濃の諸城を攻略して、大垣城から見下ろす 西北の赤坂岡山を中心に布陣した為、西軍の動揺は大きかった。 9月14日三成の謀将、島勝猛はこれを救う為、一計を案じて東軍を誘い、 南一色の地に予め配置した伏兵と呼応し笠縫、笠木で奇勝を得た。 これを杭瀬川の戦いという。そのため、一時は西軍の士気が上がったが、 東軍徳川方の策戦におびき出され、遂に、大垣城には福原長堯ら兵7千5百人 を残して、関ヶ原に移動し、翌15日は両軍が関ヶ原の原野で一大決戦となった。 これが名高い関ヶ原合戦である。関ヶ原本戦後も大垣城の攻防戦は 三日三夜つづき城内に裏切りが出たため、遂に落城した。 東軍に包囲された西軍はよく戦ったが、この戦いで、 城下町は東軍に火をかけられ、三日にわたり燃え続け、凄惨をきわめたという。 | ||
清水口御門(移築門) | 乾門(移築門) | |
(左&真ん中)表&裏。平林荘跡でもある。すぐ近くに長松城跡(説明版と碑)もある♪ (右)個人宅。('08.10.12撮影) | ||
■大垣城…2回目・2008.10.12記
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