岐阜県 更木陣屋 |
■徳山氏更木陣屋=見学自由 ■旗本徳山陣屋公園 駐車場=無料駐車場(スペース)(2008.10.13現在) |
住所=各務原市那加西市場町3-117-1 この時は、岐阜市方面から各務原市方面へ国道21号を 東へ進み、高速道路の下を通って、 金属団地前信号で県道152号へ左折。 線路を越えて、少し先で県道152号は左折になるけど、 それて真っすぐへ進み、高速道路の下を通り、少しして県道205号へ右折。 また高速道路の下をくぐって、信号西市場3を 過ぎて、案内に従って140m先を右折。(←入りづらく、出づらい道…。) 少しすると、右側にある。 |
更木陣屋 | ||
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江戸時代、各務原市北西部の那加から蘇原西部一帯は、
美濃国大野郡徳山郡出身の旗本・徳山氏の所領であった。
初代旗本となった徳山五兵衛則秀は、織田信長、柴田勝家、
前田利家に仕えた後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、
東軍について戦功をあげた。優れた戦国武将であった
徳山氏は、徳川家康からの信頼も厚く、旧領徳山郷の他に
各務郡内で西市場、山後、桐野、岩池、大島、島崎、野口など
約5千石の知行地を得て、明治維新までの約250年間、幕府直系の
家臣として、12代にわたって各務原の地を治めていた。
この地には、旗本徳山氏の屋敷が置かれ、更木陣屋の名で呼ばれた。 陣屋とは、城を持たない旗本の屋敷を指し、その領地経営の中心として 機能していた。また更木とは、西市場が中世以降「更木郷」の名で 呼ばれた現在の各務原市那加地区西部(更木八ヶ村-西市場、新加納、 前野、北洞、岩地、長塚、桐野、山後)の中心地域に位置していた ことから、その郷名を冠して呼んだことに由来している。 当時の更木陣屋の様子は、「更木陣屋絵図」(各務原市指定文化財)に よって現在でも詳しく知ることができる。 これによると、敷地内には 井戸が多数作られていたようである。(案内板より) 旗本徳山氏は、江戸市中に屋敷を構え、通常は幕府の役人として 暮らしている。そのため、自らの領地で得られた収入で生活しているが、 徳山氏自身が領地まで赴くことは稀で、更木陣屋には主に家臣が 常駐し、領地の経営に当っていた。 初代本所築地奉行に任ぜられ、本所・深川といった 江戸下町の町づくりに尽力した旗本3代目徳山重政は、幕府勤めの傍ら、 石灯篭を江戸で造らせて、西市場の神明神社へ奉納した人物として 知られている。 旗本徳山陣屋公園は、「更木陣屋絵図」と平成12年に実施された 発掘調査をもとに、江戸期陣屋風景を再現した。実際の表門は 南向きで、外側に広い堀を持っていた。また陣屋の敷地は、この公園より さらに広く、庭を含めれば周辺の人家付近まで及んでいたようである。 敷地内には池が配置され、情緒ある日本庭園があったことが想像 される。陣屋内部は役所を兼ねた屋敷といった趣きであり、 陣屋玄関付近には「使者の間」や「書院」などが配され、 主に公務に用いられた場所であることが分かる。 一方屋敷の奥は座敷や台所、使用人の部屋など主に生活の空間として 使用されていた。(案内板より) |
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石碑 | 駐車場 | 表門 |
入り口付近にある石碑を見た後は、表門(実際は南向きらしい。) の手前の駐車場(スペースか?)に置いて、中へ。 | ||
庭園 | 屋敷の表面表示 | 土塁? |
とても天気が良かったから、池に青空が反射♪ 表面表示や周りの土塁っぽいものを見つつ、1周して見学終了〜。 | ||
■更木陣屋
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