【平井城】

群馬県 平井城  ぐんまけん  ひらいじょう
■平井城=見学自由
■関東管領 平井城址公園
駐車場=無料          (2005.11.3現在)
住所=藤岡市西平井
この時は、関越自動車道 藤岡I.Cを左の藤岡254号方面へ下り、 そのまま県道13号を進み、国道254号(上大塚交差点…突き当たりになる)を 右折。次の上大塚西で左になっている。 上信越自動車道をくぐり、川を渡って白石交差点を県道173号へ左折。 県道41号の交差点を過ぎて、少しすると道端に白い縄張の棒が立ちだし、 左に小高い山(土塁)があって、その手前が入口。入口付近に、 小さい案内看板がある。

■平井城築城
平井城は永享10年(1438)に勃発した永享の乱に際し、 時の関東管領山内上杉憲実(のりざね)が、総社(蒼海…おうみ)の長尾忠房に 命じて築城したとされる説と、応仁元年(1467)に上杉顕定(あきさだ) が築城したとされる説がある。
いずれにしても、天文21年(1552)の 後北条氏の平井城攻めで落城するまで、関東管領山内上杉氏の居城としての 役割を果していた。 城の構造は、「庚申堀」と称される堀をめぐらし、西平井の村落を取り込んだ 「総構」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の切り立った 崖の上に、土塁及び堀により区画された通称本丸(主郭)があり、 その西側に通称二の丸・笹曲輪(副郭)等が配されている。
なお平井城の背後には有事の際の要害城である金山城を「詰の城」 として配置し、周辺は帰属する国人や配下の武将が築いた、 御嶽城(金讃神社近く)・東日野金井城・一郷山城・東平井の砦・ 飛石の砦など多くの城や砦により守られていた。 (案内板より)

(横上=周辺の主な城郭群、横下=平井城(現在地)と金山城の位置地図。
 左下=関東管領平井城址公園案内図、右下=主郭及び周辺概要図)
土塁 駐車場 平井城址碑
道路には、小さな案内看板があるけど、 ちょっと見落としがち。入口は城址碑のある土塁の横なので、スピードが
出がちな道だけど、土塁が見えたら減速した方が無難。 この時も、車の流れに乗っちゃって、アッ!という間に
通り過ぎてしまった(^^;)それにしても、この土塁、 城跡だと知らないと、「何だ!?」と思うんだろうなぁ〜(^m^)
土塁上 土塁上から本丸 土塁上から山々
土塁の上では、幟が自己主張してるだけ。 本丸を見渡すも、さすがに朝の7時は、誰もいない。当たり前か(^^;)
しか〜し、朝の清々しさとは裏腹に、凄い匂いが漂ってる(><;) 車のドアの開け閉めも機敏になるほど(笑)
それはさておき、周りにはいっぱいの山々。ちなみに、平井金山城は、 右の写真の電柱の右にある山。高〜い!
関東管領平井城の幟 二の丸
関東管領 平井城主山の内上杉家の紋章(竹の葉に向い雀)。 本丸の反対側。民家と畑が広がる。
復元された橋と堀
復元された橋と堀は、本丸の裏側だけど、建物がある為に、 ぐる〜っと道路を歩いてここへ。に、匂いに負けそう…。
道路からすぐに堀? 土塁 竪堀
(左)道路からすぐに堀みたいなものが…。 (右)真ん中の写真の土塁の奥の左側に竪堀がある。
三の丸 三の丸と総郭の境界跡 三の丸と総郭の境界跡
木の標柱で縄張を示してくれる(^^) この家は平井城の事を教えてくれる。 家の横の路地。ちょうど境界線?
総郭跡 これより城内総郭跡 新郭跡
次は道路を挟んで。無造作…(^^;) そして次は、花壇の中に標柱が(^^) 民家と畑が広がっている状態。
■城跡を探る
平井城跡主郭の発掘調査は、保存整備事業に伴い平成7年度から9年度にかけて 行われた。調査の結果、裾部に石積みされた土塁、横堀(幅約12m、深さ約3m)、 側面に石積みされた竪堀や橋脚台跡、掘立柱建物跡、竪穴状遺構、厠跡等が見つかり、 15世紀中頃から16世紀後半の遺物が出土した。 「本丸」と呼称されている主郭は、ほぼ真南を頂点とする長径94m、短径70mほどの 五角形をしている。主郭は西側から北を経て東側にかけて土塁と横堀で 区画され、北側は土塁と横堀が二重に設けられている。 二重堀の間にある外土塁は通称「二の丸」という副郭とつながり、主郭を 包み込む構造であったと推定される。主郭の東側には、竪堀や土橋、 曲輪等があり、この付近の横堀の底から石積みされた橋脚台跡が発見され、 主郭への出入口(虎口)があったと考えられる。二重堀の北側の 地域は、かつて「殿小路」という小字で呼称されていた。 殿小路側から「二の丸」寄りへ迂回させ、外土塁上を通って主郭の虎口に 通じていたと推定される。 また、搦手口は副郭の「二の丸」・「笹曲輪」や、その背後に詰の城である 金山城が配される主郭西南部に設けられていたと推定される。 こうした構造は、16世紀の中頃から後半に行われた大改修によって、 戦闘用の城に造り替えられた時代のものと考えられる。(案内板より)
■関東管領と山内上杉氏
鎌倉幕府の後を受け、武家政治の再興をはかった足利尊氏は、 政治上、軍事上の必要から京都に室町幕府を開いた。 しかし、東国の武家勢力の拠点であった鎌倉を統治することが、 東国支配において最も重要であると考え、幕府の機関として設置したのが 鎌倉府である。 鎌倉府の主師として、当初、尊氏の嫡子の義詮(よしあきら…室町幕府二代将軍) がつとめたが、貞和5年(1349)二男の基氏が鎌倉に入ってからは鎌倉公方と称され、 その子孫が世襲した。鎌倉公方は、康正元年(1455)足利成氏(しげうじ)が 下総国古河に移り古河公方と称されるまで、関東八カ国と甲斐・伊豆の二カ国を 支配下に置いた。 関東管領は、鎌倉公方の補佐役で、鎌倉府の最高職であった。 その任命権は室町将軍にゆだねられていた。 関東管領は、上杉憲顕(のりあき)が任命された以後、上杉氏の 四家(山内・扇谷…おうぎがやつ・犬懸…いぬかけ・宅間)が この職を世襲した。やがて関東管領は関東の実権を握り、 山内上杉氏がこれを独占していった。(案内板より)

■平井城
道路を走っていると、道端に縄張の白い木の棒が刺さっているのが目に入る。 しかし、車の流れは早いし、路駐するほどのスペースが無く、一旦通り過ぎて 本丸から歩いて散策することに。そのうち、沢山の旗が突き刺さっている土塁が ど〜んと、見えてくる。その土塁の手前から入って行き、期待しながら自動車を 降りると、「うっ!?」となる匂い。どうしようもないので耐えながらの散策(^^;) さすがに早朝7時だけに、誰もいなかった(笑)本丸を見た後、道路の棒を見に 行く。すると道路が狭い為、歩行者が歩く幅が狭い!ビュンビュン通り過ぎる 車の横を歩くのはすっごく怖かった〜!それでもどうにか無事見る事が出来た。
ちなみに、パンフが説明板の下に設置しているポストみたいな中にあった(^^)

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