三木城
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三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、
明応年間(1492〜1501)に築かれた。
天文7〜8年(1538〜1539)に、山陰の戦国大名尼子詮久(晴久)、
天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められたが、
落城は免れている。
天正6年(1578)、5代城主別所長治の時、天下統一を目指す織田信長の家臣
・羽柴秀吉に攻められた。秀吉は、三木城を取り囲むように30余の
付城を築き、兵糧攻めにした。
この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)春より1年10ヶ月
に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名である。
天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、
籠城した人々の命が助けられた。合戦後は、秀吉の家臣
の杉原氏・中川氏などが城主として次々と入れ替わった。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦後は池田輝政が姫路城主となり、
その支城として存続した。
江戸時代になって、元和2年(1616)小笠原忠真(ただざね)を領主とする
明石藩に編入され、元和3年(1617)に幕府による
一国一城令によって廃城となった。この時、三木城の資材は
明石城の建築部材に使用されたと伝えられている。
(案内板より・絵図も)
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別所長治 |
戦国時代、三木城を居城として東播磨地方を
領有した戦国大名別所氏の5代目当主。4代目
安治の嫡男で小三郎長治という。安治が39歳の若さで
病死したため、13歳で当主となる。当時、天下統一を目指していた
織田信長と同盟関係にあったが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に
味方したため、信長は家臣の羽柴秀吉に命じて三木城を攻めた。
秀吉は、ほぼ2年間にわたり三木城を包囲し、兵糧攻めにしたことから、
三木合戦と言われるこの戦いは、「三木の干殺し」とも呼ばれている。
長治は、飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを
秀吉に申し入れ、天正8年(1580)1月17日、一族と共に自害した。
享年23歳といわれている。この石像は、三木ライオンズクラブが結成40周年を
記念して、長治公の武者姿をイメージして製作され、市が寄贈を受けた
もので、史実に基づいた姿ではありません。
(三木市の案内板より)
馬も長治公もすっごく怖〜い(@@;)夜、見たくないな(笑)
案内板の三木合戦図に似た感じの長治公が…。
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駐車場 |
西の丸方面 |
埋蔵文化財展示室 |
(左)本丸にある駐車場。車で来れるから嬉しい。
(真ん中&右)本丸の西側。道を挟むから、
西の丸辺りなのかな?
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本丸 |
(左)上の丸保育所。下で、天守跡を紹介しているけど、
案内板の縄張り図だと、こっち方面?
(右)400年祭記念之碑。
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天守跡(?) |
(左)石段の右下に「天守跡」の碑がある。でも、
案内板の縄張り図では、矢倉になっているんだけど…?
(真ん中)長治公辞世の歌碑。
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちに
かはる我身とおもへば」素晴らしい!
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忠魂碑のある土塁 |
本丸井戸(かんかん井戸) |
北側の階段 |
■本丸井戸…
この井戸は、三木城本丸跡に残る
唯一の井戸で、口径3.6m、深さ約25m
を測る大きなものである。石を投げ
込むと「カンカン」と音がすることから
「かんかん井戸」とも呼ばれている。
城内にある雲龍寺には、この井戸から
出土したと伝えられる、城主別所氏
愛用の鐙(あぶみ)が大切に保存されている。
(案内板より)
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北西〜北 |
北側から本丸 |
「三木城跡」 |
そばに美嚢川が流れる。
北側の階段を下りて振り返ると、フェンスに
「三木城跡」の看板が(^^)(右)切り取って。
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雲龍寺 |
天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、
羽柴秀吉の三木合戦時には、三木城内にあったため、
殿堂及び伽藍は焼失した。
天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、
雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主
別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は
後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」
と「唐子遊びの軸」を形見として贈った。
三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して
寺院を再建した。
天正13年(1580)秀吉から境内山林竹木並びに
30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より
御朱印状を承った。秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで
食べたとの言い伝えにより、当寺では、毎年1月17日に
藁にみたてた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が催されている。
(案内板より)
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三木城主の碑 |
外堀の石垣と碑 |
黒門跡 |
2枚=雲龍寺で。(真ん中)三木城外堀に使用されていた石垣。
(右)左が三木城跡方面。右が雲龍寺方面。
※黒門跡から坂を上がっても、道が細くなっているので(上の案内図参照)、
駐車場に行くことができません。
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