兵庫県 枝吉城 |
■枝吉城=見学自由 ■吉田郷土館 駐車場=吉田郷土館 (2008.11.2現在) |
住所=神戸市西区玉津町枝吉 (第二神明道路 玉津I.Cが近い) この時は、国道175号を南下し、森友交差点で県道21号(でも、 案内板には号線が書いていない。)へ右折。 少しして、吉田郷土館の看板に従って左折。 吉田郷土館の横の道から歩いて、裏側の城跡へ。 |
枝吉城 | ||
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枝吉城は、戦国争乱の時代が幕を開ける15世紀中ごろ、
明石氏によって築城された。明石氏は、古代明石郡の大領を
先祖とするという言い伝えがある。
城を大地上に構え、その東縁には城主の居館を、
その東側に家臣団(旧字地名の北屋敷、南屋敷と思われる)
住居区と、商人(同地名の連雀)集住区とする方形の町を
置くなどし、戦国城下町を形成、江戸時代を迎えるまで
の明石地方の中心であった。
枝吉城は2度の合戦を経て、城下町もその度に戦火にあった。
天正13年(1585)の国替えで、明石則実に替わって城主となった
キリシタン大名の高山右近重友が新たに船上城を築いて
移ったことにより、
1世紀半にわたる枝吉城の歴史は終わった。
枝吉城が築かれていた大地は城山と呼ばれ、6万3千余uの
範囲には田畑や雑木林、溜池などがあった。
この大地上には、稲作開始期にあたる弥生前期の村落跡も
あったが、枝吉城築城の際に壊されてしまった。(左=下田勉作図。案内板より。)
枝吉城主系譜 越前守 尚行−周防守 祐実−右京亮 則行−修理亮 長行 −左京亮 祐行−左近助 則実−高山右近 重友 |
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吉田郷土館 | 枝吉城址碑 | 播磨吉田遺跡碑 |
吉田郷土館の駐車場にとめて、郷土館横の道から裏側の城山へ。 本丸東側の部分だけが、細長く残っていた(^^) | ||
本丸 | 神本神社 | 下から |
神本神社(こうのもとじんじゃ)由緒碑によると、 神社の境内地は城主明石氏の館跡なんだとか(^^) ほほぉ。 | ||
■枝吉城
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