【府中城】

茨城県 府中城 いばらきけん ふちゅうじょう
■石岡の陣屋門(石岡小学校敷地内)
駐車場=石岡小学校(石岡市民俗資料館兼?)
                    (2005.3.26現在)
住所=石岡市総社1−2−10 
常磐自動車道路千代田石岡I.Cから左の6号石岡・水戸方面へ。 ずっとそのまま進み、石岡市に入って、石岡道路方面の 恋瀬橋北を過ぎ、次の交差点を左の国道355号方面へ進む。 石岡小学校入口と石岡市民会館の小さめな案内看板を左折。 (関東つくば銀行が右側に見えた)そのまま細道をずっと突き進み、 突き当たりの石岡市民会館(白い建物)をぐるりと回る とすぐ左にフェンスの小学校の駐車場。(この時はそこへ駐車) そこから校舎の間を少し歩いて左にある。

府中城
府中城は、正平年間(1346〜70)大掾詮国(だいじょう あきくに) により築造されたといわれる。 天正18年(1590)12月大掾清幹(きよもと)が 佐竹義宣(よしのぶ)に攻められて落城した。 後、義宣の叔父佐竹義尚(よしひさ)が城主となり、 慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗(まさのり)が これを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が 封じられ、この地に陣屋を置いた。 城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・ 二の丸・三の丸の他、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、 また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。 現在では、土塁や堀の一部が 残されており、当時を偲ぶ事が出来る。 (石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会の案内板より)
←ひっそりと。でも、しっかりと。
正門側にある石岡の陣屋門&石岡の陣屋門跡 (石岡市民会館敷地内…電話ボックス横)
石岡の陣屋門は、文政11年(1828)2月に建てられた。 元禄13年(1700)初代水戸藩主徳川頼房の五男松平頼隆が、 府中藩主となり、以後明治維新に至る約170年の間、石岡地方は 府中松平藩の支配下にあった。府中松平氏は、水戸徳川家の分家として 「御連枝」と呼ばれた。江戸時代に代官その他の役人が在任した 屋敷や役宅は、一般に陣屋或いは、陣屋敷と呼ばれていた。 石岡の陣屋門は、本柱の上に妻破風造の屋根が付き、本柱の 控柱の上にも、本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根を付け、 扉と控柱とを覆っている高麗門の形式である。 この門は、冠木と棟木間が土壁で閉ざされている高麗門に比べ、 冠木が本柱を貫き通し、また冠木と棟木間に格子を組み入れる等の 手法を見せている。 (石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会の案内板より)
常陸国衙跡
常陸国府の成立は、7世紀後半から8世紀初頭である。 国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・ 筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していた。 常陸国は大国で、国府も大規模なものであった。 多くの官人や兵役・雑徭の為にやってくる農民達で賑わい、 国分寺・国分尼寺・国衙工房などの施設が存在した。 国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近に当たる。 国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や、 倉庫群等、様々な建物があった。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に 伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。 大形のものは径1.5m、深さ2mの規模を持ち、これは国衙の建物跡と 考えられている。常陸国府は、東日本の軍事・経済の拠点として、 また、宗教文化の中心としての、重要な役割を担っていた。 (石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会の案内板より)
常陸国府跡石碑 石岡市民俗資料館 正門側の桜?梅?

■府中城
地図を見ながら調子よく進んでいたけど、石岡市民俗資料館なるものが見つからない…。 まさか小学校の敷地内に、民俗資料館がちょこんとあるとは思いもしなかった(笑)次に、 小学校に入っていいのかどうかで迷った(笑)ドキドキしつつフェンスで囲まれた駐車場に 車を入れると、親子でキャッチボールをしてたり、車中で寝ている人がいたり〜となんだか 大丈夫な気がして、車を降りてぐんぐん進むと、校舎の間を買い物帰りのおばあさん達が おしゃべりをしながら歩いていった(笑)それは何とも不思議な光景だった。えっ?て(笑) 結局、歩いてすぐ左側に石岡市民俗資料館、石岡陣屋門も見つける事が出来た。ふぅ。
土塁には白い木切れがあって、一瞬、え?何?って思ったけど「府中城の土塁」とは(^^) でも石棺があったりと、微妙に嫌な雰囲気はあったけど、陣屋門と花を見た時はニッコリ。 そうそう、陣屋門跡は小学校手前の石岡市民会館の電話ボックス横にひっそりあった(^^)

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