茨城県 古河城 |
■古河城=三国橋〜新三国橋の河川敷&堤防 ■古河歴史博物館=400円 開館時間=9時〜17時(入館は14時半まで) 休館日=月曜・祝日の翌日・年末年始・館内整理日 駐車場=無料(※何ヶ所かあり) (2007.3.21現在) ※古河城のページは、 2005.2.27(夕方)、2007.2.25(朝)、 2007.3.21(昼)の写真を使用しています。 |
住所=古河市中央町3-10-56(←古河歴史博物館) 古河歴史博物館へは、茨城側からの国道354号の場合、 国道4号との大堤交差点を過ぎて、少し先のバイパス でない右側の国道354号を進む。案内板を右折し、右側の広めの駐車場か、 過ぎて左折し、案内板に従って右折。左側の少ない駐車場を利用。 古河城跡は、三国橋〜新三国橋付近の堤防&河川敷。 |
本丸跡 | 堀の名残? | 三国橋 |
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新三国橋〜三国橋の間の堤防上にある本丸跡の碑。 古河城は河川敷となってしまっている。(2005.2.27撮影) | ||
古河歴史博物館 | 出城諏訪曲輪跡の土塁 | 古河歴史博物館案内図 |
古河歴史博物館は、出城諏訪曲輪跡で、土塁や堀の名残がある。 (2005.2.27撮影) | ||
古河歴史博物館東門 | 出城諏訪曲輪跡の石碑 | |
古河歴史博物館東門から入ると、真ん中の写真、 南門から入ると右の写真の石碑がある。(2005.2.27撮影) | ||
古河歴史博物館の鳩 | ||
屋根には鳩が3羽いて、違う方向を見ているって館内に書いてあったので、写してみた(笑)(2005.2.27撮影) | ||
駐車場(百間堀跡) | 百間堀跡 | 駐車場(した堀) |
左の写真の駐車場は近いけど数が少なくて、右は広いので楽々。 この辺りは殆どが堀跡。(2005.2.27撮影) | ||
鷹見泉石記念館 | ||
「可琴軒」(右の写真)は、清人(中国人)による鷹見泉石の雅号で、泉石の引退にあわせた 劉東藩の書だそう。 | ||
鷹見泉石記念館は、古河藩が藩士達の為に用意した武家屋敷の1つで、隠居後、もっぱら蘭学に いそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家である。 建物は、寛永10年(1633)古河城主 土井利勝が、古河城の三階櫓を 造った時の残り材を使って建てたと伝えられ、もとの建坪は100坪 もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長く、他に比べて 一段と広大な(現在の4倍以上)ものだった。 土井氏の家中では、奥氏・潮田氏・鷹見氏等、もと家老を勤めた者が 入った場合が多かった屋敷のように思われる。 いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、 天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名余を 一時収容した屋敷でもあった。それは、泉石の子忠正(たださだ)が 家老となり、城内の屋敷に移って、空家になっていた時のことだった。 維新期、この屋敷は再度入居した鷹見家の所有となり、泉石の残した 厖大な資料は、この家で代々の子孫に守られて今日に伝えられた。 (〜パンフより〜) (2005.2.27撮影) | ||
御茶屋口と御成道 | ||
日光社参とは、江戸幕府歴代の将軍が、第1代将軍の徳川家康をまつる 日光東照宮に参詣することであるが、その往復の宿泊・休憩所は、 岩槻・古河・宇都宮の三城を原則とした。 古河の場合、ここの御茶屋口の門を入って古河城へと向かったのである。 突き当たりに御茶屋口番所と呼んだ、武器を飾り立てたいかめしい施設があった。 それは、土井利勝が3代将軍家光をもてなすための茶屋を置いたことに始まるというが、 格式の高い大名・公卿が通行するときも、ここで古河藩の係り一同が整列して 迎え、相手の大名も乗物を止め、輿の戸を開けて挨拶をして行く決まりでもあった。 もし相手の大名がそれ以下の場合は、肴町の御馳走番所という接待所で 挨拶を受けたものであった。 御茶屋口番所前を右に左に折れしばらく進むと、突き当りが城代のいた 出城で、ここを堀に沿って右に左に折れ堀に挟まれた中道という道を行き、 突き当りをまた左に右にと折れに折れて、ようやくやはり堀に挟まれた 杉木立の中の御成道に入り、御成門(桜町)から古河城へと御成りになる。 これが将軍の御成道であった。 (古河市教育委員会の案内板より) (2007.2.25撮影) | ||
御成道 | 御成門跡&獅子崎の土塁(右) | 家老屋敷の長屋門 |
御茶屋口から続く御成道。土塁も、長屋門も残る。 ただの民家の門に見えちゃうな…。 (2005.2.27撮影) | ||
古河城追手門跡 | ||
敵を追い払い、敵の大手(正面)にあたることから、城の表門(正門)の ことを追手門とか大手門とかいった。 北にある大通りは、北側一方だけが武家屋敷になっていて、片町といい、 南側は城の堀とその水面から5間(約9m)程の土塁、そして追手門があった。 追手門に入るには、堀に架かる橋を渡った。堀の水深は2尺(約90cm)、 幅は7間(約13m)というが、16間(約30m)と書いたものもある。 門の形式は、第一・第二門と枡形による枡形門の虎口(出入口)をとっていた。 まず切妻屋根に、おそらく竪桟張であったかと思われる扉を持った 高麗門(第一の門)を入ると、そこは土塁で囲まれた枡形(正方形)の 空間で、まっすぐは進めないから右へ直角へ折れると、いかにも城門らしく 豪壮なつくりの第二門があった。第二門は、土塁と土塁の間に渡櫓を 渡して下を門とし、上を櫓(矢倉)とする、櫓門といわれるものであった。 門の壮健は、慶長年間、松平(戸田)康長の時であったという。 (古河市教育委員会の案内板より) (2005.2.27撮影) | ||
旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺・黒門) | ||
土井氏が古河城主の頃の江戸下屋敷の表門だったが、 昭和8年(1933)土井家から菩提寺である正定寺に寄進され、 移築したものである。江戸時代の建造物のうち、大名屋敷の遺構の 一部を伝える貴重な門である。なお、屋根瓦には土井氏の家紋 「水車」がついている。 (古河市教育委員会の案内板より) (黒門=2005.2.27、瓦=2007.3.21撮影) | ||
土井利勝公銅像(正定寺) | ||
土井利勝(1573〜1644)は、寛永10年(1633)下総佐倉城主から
古河城主(16万石)となった土井家の祖である。寛永15年(1638)から
正保元年(1644)まで江戸幕府の「大老職」にあり家康、
秀忠、家光に仕えて幕府の基礎を築いた幕閣の1人で、
古河地方の開発にも貢献する所が大きい1人でもあった。 (案内板より) 家光に、「国元の農民に桃を植えさせていると聞くが、本当か」と 尋ねられ、利勝は「古河の領民は薪に困るほど貧しいので、江戸で家臣の 子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って、野や畑、農民の屋敷周りに 植えさせました。桃は、2、3年で成長し、今日ではとても役に立っている ようでございます。」と答えていると落穂集に書かれている。 薪の効用が述べられているが、食べる事ができ、売ることもでき、 花も楽しめるという点を見通していたのでは…。(パンフより) |
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旧古河城乾門(福法寺山門) | ||
この門は、江戸時代の旧古河城内にあった数ある門のうちの1つで、 乾門と呼ばれてきたものである。平唐門様式のこの門は、御殿風で 当時の城内の様子を偲ばせるものであり、また古河城の現存する 数少ない遺構として貴重なものである。明治6年(1873)旧古河城 取り壊しの時、当時の檀家が払下げを受けて、寺に寄進し 移築したものである。 (古河市教育委員会の案内板より) (2007.2.25撮影) | ||
道路の雪の結晶 | 柵にも | 街灯にも結晶 |
道路にも雪の結晶が施されていて、歩くのが楽しい(^^)(2007.2.25撮影) | 青空がきれい〜。 | |
御馳走番所(肴町) | ||
江戸時代に古河城下を通過する諸大名は使者を派遣し、
挨拶をしに参った。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待を
した。その役所の1つに使者取次所があり、別名を
御馳走番所と言った。現在、米銀のある処で、
今の中央町2丁目麻原薬局角から中央町3丁目の
坂長本店の間、道幅三間半、長さ二十二間五尺の通りは、
「肴町」と呼ばれるようになった。
(肴の会の案内板より)
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高札場跡と本陣跡 | ||
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、 もと二丁目と呼んだこの辺であった。 文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、 斜め向かいに本陣と、問屋のうちの1軒があり、またその向かい側に 脇本陣が二軒並んで描かれている。 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止 だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げた所である。 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦の時、大将の陣取るところに 由来して、大名・旗本をはじめ幕府関係の高級役人・公卿・僧侶などの 宿泊・休憩所で、古河の本陣は117.5坪(約400u)もあった。 どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、 経営は大変であったといい、 古河の脇本陣はのち他家に移っている。 問屋は、人足25人、馬25疋を常備し、不足の場合は近村の応援を 得たり、人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の 運搬一切を取り仕切った宿場役人のことで、他にも3〜4軒あって、 交代で事にあたっていた。 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目 (曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道幅は五間四尺 (約10m)ほど、延長十七町五十五間(約1850m)余あり、 旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)が事のほか多い 町だったという。 (古河市教育委員会の案内板より) (上=本陣跡、右=高札場跡)(2007.3.21撮影) |
■古河城…2007.2.25記
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