茨城県 小幡城 |
■小幡城=見学無料 駐車場=無料駐車場(入口付近)(2005 3.26現在) ※足元が悪いので、歩きやすい靴を着用。 今回、犬に追いかけられたので、今後注意した方がいいかも。 |
住所=東茨城郡茨城町小幡 常磐自動車道 岩間I.C〜県道43号〜県道181号のアクセス。 この時は石岡市の府中城からだったので、国道6号を 進み、左が県道43号、右が181号の小幡南交差点を右折。 少し進んで行くと、左に小幡へ行く道があり、左折。 進んで行くと小さなスーパーが左、 右にはお地蔵様があって、お地蔵様の手前を右折。 そのまま真っすぐ進み、右にある竹やぶが小幡城跡。 見落としやすいので注意。(神社まで行かない) |
小幡城 | ||
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大掾詮幹(だいじょうのりもと)の三男義幹(よしもと)が 室町時代(1420年頃)に築いたという説と、小田知重の三男 光重が鎌倉時代(1220年頃)に築いたという二説がある。 戦国時代の文明年間(1481年頃)以後は、水戸城の 江戸氏の影響下に入る。 現在の城域約12haが整備されたのは、元亀〜天正年間(1570年代) と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割を 果している。 安土・桃山時代の天正13年(1585)の書状には小幡城将として 大塚弥三郎と小幡孫次郎の名が見える。この頃城の守りを 強化する為、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。 天正18年(1590)12月、豊臣秀吉の権力を 背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、 水戸城の江戸氏は城を奪われ、府中城の大掾氏は滅亡、 この時小幡城も落城した。 その後、小幡は佐竹氏の秋田移封(慶長7・1602年)まで 佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。 小幡城は天正18年の落城、或いは、佐竹氏の移封の時に、 数百年に亘る歴史的役割を終えたと考えられる。 (茨城町教育委員会の案内板より) | ||
入ってすぐ七郭と二郭の間の堀 | 七郭と二郭の間の堀(左が土塁の切れている場所) | |
土塁が物凄く高い!!写真では低く見えるかもしれないけど、 見上げる程なのだ。 | ||
堀底道 | 二の郭(土塁を登らないと見れません) | |
■堀底道… 中世の城の堀は大半が水の無い空堀。小幡城の堀も 全部が空堀で、堀底は通路として利用されていた。 (茨城町教育委員会の案内板より) | ||
二の郭と三の郭の間から振り返る | 二の郭と三の郭の間の空 | 本丸と四郭の間の空堀 |
ここには伐採した木が置かれてた。 | 背が高い木が多く、木漏れ日程度。 | ここでは太陽の光がいっぱい♪ |
本丸の入り口 | 本丸 | 本丸から三の郭を見る |
これを上って右に本丸がある。 | あんまり明るい感じじゃない本丸。 | 本丸の土塁から三の郭の土塁を。 |
本丸にある小幡城跡碑 | 四の郭へ | 四の郭 |
ヒッソリとした感じの本丸。 | 木漏れ日がきれいでしょ。 | 赤い印と紐があったから私有地? |
四の郭から見た空堀 | 土橋 | 本丸と五の郭の間の空堀 |
■土橋… 郭と郭を結ぶ通路として築いた土手を、一般に土橋と呼ぶ。 小幡城内では四の郭と五の郭の間(現在地)と五の郭と七の郭 の間で確認されている。土橋は通路としては便利であるが、 城に立てこもって戦う場合は逆に不利となる為、状況によっては 削り取られたのであろう。 (茨城町教育委員会の案内板より) | ||
本丸と五の郭の間の空堀 | 櫓跡へ続く下からの道 | 櫓跡 |
変形武者走り | 櫓跡付近から下を見る | 五の郭 |
櫓跡より六の郭を見る | 櫓跡と武者走りの間 | 六の郭と変形武者走りの間 |
この時は犬の姿も声も無かったのに。 | すばらしい。きれい〜。 | この先で犬に追いかけられた! |
小幡城遺構の特徴 | ||
小幡城は三方を湿地に囲まれた西に広がる舌状台地に築かれている。 城の構造を見ると、西からの敵の進入を想定している事が分かる。 突き出た「折邪(おりひずみ)」は、正面ばかりでなく側面の敵に対しても 威力を発揮し、また郭を取り囲む深い「堀底道」は、敵を自然と城外へ追いやるように 工夫されている。特に現在地は(上の写真の真ん中付近) 堀底道から進入した敵を撃退する要所である。 高台の部分は、城の西側と中心とした情勢をつかむ 「櫓跡」と思われる。また東にのびる土塁上に凹をもつ 「変形武者走り」は少ない城兵で両側の堀底道の敵を 攻撃できる機能を持っている。 他の城には、例をみない遺構である。 (茨城町教育委員会の案内板より) |
■小幡城
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