茨城県 太田城 |
■太田城(別名=舞鶴城、青龍城) ■太田小学校、若宮八幡宮など 駐車場=なし (2006.5.6現在) |
住所=常陸太田市中城町 この時は、西から国道293号を常陸太田市方面へ走って、 久米交差点を過ぎ、斜め右の国道293号へ進み、 宮本町信号を斜め右の国道293号へ。この交差点は凄くわかりにくいが、 小学校横の(遠めでも小学校に見える)細道が国道293号。 少し進んで小学校を沿うように左の道に入り、上り切って左折。 小学校の入口に城址碑がある。 若宮八幡宮へは、右に小学校の城址碑があるとしたら、そのまま 直進し、幼稚園の横を通り、左折。少しして左にある。 上から見渡せる西山公園へは、宮本町交差点を西へ(今回は逆戻り)国道293号を進み、 少しして西山荘入口を左折。 |
舞鶴城址(城址碑の裏に説明文あり) | ||
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この地に1110年頃(天仁年間)藤原秀郷の子孫太田大夫通延 が定住し、城郭を構築したのが太田故城の始まりといわれる。 曽孫通長にいたるまで居城したが、その頃天神林の馬坂城に土着 していた佐竹冠者昌義(常陸国佐竹氏初代)と主従の契りを結び、 通長は小野崎(瑞竜町)に移り、昌義は馬坂に城代を置いて、 太田に移った。以後20代義宣にいたるまで450年間佐竹氏累代の 居城となる。その城を名付けて舞鶴城という。城の竣工の日に 鶴が城の上を舞いまわり、吉兆としてこのゆかしい城名がつけられたとも 言い伝えられている。 3代隆義は、平家の恩顧をうけて常陸奥七郡を支配し、その武威は 境外に及び、平清盛の執奏により従五位下・常陸介に叙任され 城の規模を更に拡大して青龍城とも称し、内城は今の中城町一帯に 及んだ。 19代義重は、機略縦横・思慮周密・小田原の北条氏、陸奥の伊達政宗に 対抗して北関東を完全に支配し、天正19年(1591)義宣が水戸城に移った 後も自ら太田にあってこれを後見した。徳川・上杉・前田・毛利・島津の諸家と ともに、天下の六大名に数えられたのもこの頃である。 しかし、20代義宣は関ヶ原の戦いに西軍(石田三成)に味方し、 慶長7年(1602)徳川家康の命により、常陸54万石から出羽(秋田)20万石に 国替えされて、舞鶴城は廃墟となる。 以後、水戸徳川家の領となり明治維新に至る。 | ||
門近くに…? | あった!!(左の拡大図) | 太田小学校(本丸) |
門近く〜。と探していたら、 見落としそうになりつつ発見!門というより少し奥気味か。 しかも手前にはこんな看板が。 | ||
小学校前の道路 | 太田一高(北曲輪方面) | 若宮八幡宮の駐車場 |
(左)来た道を。 (右)奥側で、北曲輪の太田一高(白い屋根)が見えた。 | 駐車場に二の丸跡の文字。 | |
若宮八幡宮(二の丸) | ||
とても素敵な雰囲気。ちなみに、ここの駐車場、 出入りする時に少し見えづらいので、 気を付けた方がいいかも。 | ||
若宮八幡宮のケヤキ | 西山公園 | |
ここは西山公園だけど、国道には「西山荘」の 案内看板が多い。黄門様が隠居した所だとか。 道は途中まで一緒で、後は看板に従えば比較的わかりやすい。 | ||
太田城を上から眺めてみる | |
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ちょっと、木が邪魔で全部入らないので、2枚。 左の真ん中の白い屋根が太田一高(北曲輪)で、 その右側の木が生えている部分が、太田小学校(本丸)になる。 右の写真は、その小学校部分が左端になって、真ん中の木が いっぱい生えてるのが、若宮八幡宮(二の丸)になる。 それにしても、あともうちょっとで、全部入りそうなのに〜 (^^;)木がねぇ。 | |
■太田城
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