茨城県 豊田城 |
■石下町地域交流センター=400円 開館時間=9時〜16時半(入館は16時まで) 休館日=月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始 駐車場=無料 (2005.6.26現在) ■城祉は■ 結城郡石下町本豊田// 国道294号を県道24号との石下高校東 交差点を右折。 小貝川に架かる長峰橋のすぐ手前!「川の一里塚」右折。 でも、5ナンバーしか無理かも。小貝川堤防沿いにある。 |
住所=常総市新石下2010 常磐自動車道 谷和原I.C〜国道294号を 北へ進み、国道354号の交差点を過ぎて、 そのまま294号を進み、県道24号との石下高校東 交差点 を左折。1ヶ目の信号を右折。進むと右に豊田城で、左に駐車場。 石下小を右折しても駐車場がある。 |
夕日に映える豊田城 (2004.1.10撮影) | |
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模擬天守閣だと分かっていても、とても立派で素敵(^^) 夕日がとても映える♪ | |
石下町総合福祉センター側からの豊田城 ↓ここから2005.6.26 | |
今回は入る為に、やって来た(^^)しかし、何度見ても大きい…。 撮りにくくて仕方ない。 | |
長塚節の像と豊田城 | 瓦 | あちこちにある櫓 |
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(左)どっちかというと、長塚節の方がメインみたい。 (右)こんな風にいっぱい豊田城と同じ様な櫓あった。 | ||
(左)石下町総合福祉センター。 (真ん中)石下町立石下小学校方面。 (右)石下町地域交流センター前の駐車場。 | ||
石下町地域交流センター建設の碑より抜粋(写真は豊田家旗印) | ||
古きを尋ねるに、今を去ること1050余年の昔、豊田郷の
生んだ風雲児平将門は、天慶の乱により、940年悲運の
生涯を閉じてから常総の地は平貞盛・藤原秀郷の領地と
なったが、貞盛は伊勢の国に遷り、伊勢平氏の祖となった。
当地方は、貞盛の弟繁盛の支配する処となり、4代後の
常陸大掾平重幹の第三子政幹が赤須四郎と名乗り下総豊田郷
に住した。
前九年の役において、源頼義・義家父子は陸奥の安倍頼時
追討の命を受けて北上する。赤須四郎は、豊田郷兵を率いて
その軍列に加わり、阿武隈川一番乗りをはじめ、衣川の戦い
等に数々の功をあげた。
役後、戦功によって後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、
神旗(蟠龍旗)と豊田・岡田・猿島の三郡を下賜された。
これにより名を豊田四郎将基と改め、若宮戸に居を構え、
常陸の山野に武威を張った。
以来20代520有余年の長い間、中世・戦国時代にかけて、
この地は豊田氏の本拠地であった。
戦国時代には、下妻多賀谷氏との攻防が激しく、この間、17代
元豊は三男家基に家宝の甲冑を与えて現糸繰川右岸の
袋畑に封じ、前衛第一陣とした。また、19代政親は石毛城を築き、
二男の次郎政重を石毛に分封し、第二陣とした。
更に、第三陣を館出(石下高校付近)の地に配して
侵攻に備えた。しかし豊田氏必死の防戦にもかかわらず、
天正3年(1575)多賀谷氏に滅ぼされた。
慶長8年(1603)江戸幕府成立後、当地は幕府の直轄領 或いは旗本の知行地に組み入れられた。その後、明治維新により 幕府が崩壊し新政府による知県事の管轄となった。 明治4年(1871)の廃藩置県に始まり、市町村制実施教育制度の整備等、 各分野に亘って積極的な改革が行われ自由主義経済と 相まって急速な発展を見た。それに伴い国政は大陸政策におよび、 やがて大東亜戦争へと発展した。第二次大戦後は一挙に施政の 民主化が進む中、窮乏から復興へと努力を重ね、昭和29年(1954) 10月、五箇町村合併し新しい石下町が誕生した。 (石下町・石下町観光協会の案内板より) |
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豊田城祉(小貝川沿い&鉄塔近く) | ||
薄れて読めない説明板がある。でも、石碑は立派。でも、 ここまでの道のりが大変(^^;) | ||
鉄塔近くにある中城土地改良事業竣工記念の碑より | ||
この地は常総の山野に君臨した名門豊田氏の城跡である。 12代善基は、この地一帯に築城して本拠地となし、若宮戸に祈願寺として 開基した龍心寺を現在地に建立し隆盛を誇った。 やがて戦国乱世の弱肉強食の時代に至り、新興勢力多賀谷氏の 南侵激しく豊田領は風雲急を告げた。しかし豊田城は堅固であり、 尋常の攻めでは手中に落ちず、多賀谷は偽って和睦を申し入れ、重臣の 白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。 社参した全洞は、雷神宮境内に於て豊田老親飯見大膳を待受け、 言葉巧みに近付き茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、 豊田側不利を説き、寝返りの腹をさぐった。 主家の衰微ゆく様を憂い、身の行く末を案じていた 飯見大膳は、白井全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との 甘言に乗り、主君虐殺を決意し天正3年9月、十三夜の月見の宴に 事よせて主君治親毒殺せんと私宅に招請した。 豊田氏の守護神金村雷神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず 鳴動があるといわれ、折も新奥殿に振動が起り、 宮司の「凶事の起る恐れあり」との具申があった。 まもなく石毛城より城主政重瀕死の知らせがあり、月見の宴は中止となったが 再び十月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて 茶会を催した。 治親夫人は、不吉な予感による胸騒ぎの為出向く事をとどまる様 懇願したが、「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」 と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅におもむき、 毒酒を盛られて悲運の最期を遂げ、豊田城は逆臣により乗っ取られた。 豊田の遺臣は石毛城に拠り抗戦するも、逆臣の身柄 引渡しと次郎正重の遺児七歳の太郎正家の助命を条件に下妻に降った。 多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に 引き渡した。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連れ出し、 主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の造った 竹鋸を以って挽き割り、大膳一族36人の首をはね主君の無念を晴らした。 落城以来ここに400余年、豊田城の跡地一帯も、 農魂たくましい先達の努力により、今整然と区画され、 田畑が拓かれた。かつてこの地は排水状況が悪く、 一旦豪雨に見舞われると厳しい災害を受けることもしばしばで、対策に苦慮していた。 昭和41年、熱意ある関係者により、中城土地改良推進 掲議会が結成され、同年6月事業認可申請書提出、 同年7月認可、同年11月工事着手、昭和42年3月完了した。 工事完了によって農業近代化の基盤が確立され、 土地改良事業に先駆的な役割を果した努力は見逃すことのできぬ功績である。 |
■豊田城…2005.6.26記
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