茨城県 結城城 |
■結城城=見学自由 ■城跡公園 駐車場=無料駐車場 (2007.2.25現在) |
住所=結城市結城 この時は、国道4号(新4号バイパス)を北上し、 国道50号で下りずに、次の県道264号で下りて、 小田林北信号を結城方面へ右折。途中から県道204号になって、 大町交差点を過ぎて、そのまま県道204号を進んで行くと左へ曲がるようになって、 結城小前交差点を右折。そのまま道なりに県道204号進んで、 城跡公園の指示通り(紬の里方面へ)右折。 進んでいくと城跡公園があって、奥に駐車場がある。 |
結城城 | |
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結城城は治承年間(1177〜1180)に結城朝光が築いたとされるが確証は無い。
むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、
戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正19年(1591)
徳川家康の二男秀康を17代晴朝の養子に貰い受け、慶長6年(1601)
越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700)水野勝長 (18000石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居所となった。 結城の名を不朽にしたのは永享12年(1440)の結城合戦である。 関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと、結城家11代氏朝(1402〜1441)は、 持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで1年余りの歳月を 費やし、結城の名を天下に轟かす結果となった。 (結城市教育委員会の案内板より) |
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結城城の曲輪と内堀 | |
結城城は、鬼怒川と田川によって形成された低地に突き出た大地を利用して 築かれた。従って、城の周囲は沼や深田で取り囲まれた上、更にその北側から東側にかけて 田川が流れるなど、平城でありながら天然の要害になっていた。 城は、実城・館・中城・西館・東館と呼ばれた5つの大きな曲輪と、 付属的な曲輪から構成されていた。現在、城跡公園があるところが館で、 江戸時代に結城水野氏が城を築いたときには、この部分が本丸だった。 また、この館の北側に、現在は残されていないが、かつて五反ほどの曲輪が存在し、 室町時代の結城氏の城では、実城と呼ばれ、主郭であったと考えられる。 また、館の西側の曲輪が西館で、南側の曲輪が中城、さらに中城の南側で、 城の一番南に位置しているのが東館である。 これらの曲輪は、内堀で区切られていた。城全体をほぼ南北と東西に分ける 内堀は、深さ6〜7m、幅20〜25mに及ぶもので、台地上では水は出ないため、 空堀だった。この曲輪と曲輪を結ぶため、内堀には土橋や木橋がかかっていた。 現在、城跡公園から南に通じる道路には、館と中城を結ぶ土橋が残され、 浄水場の正面前の道路も館と西館を結ぶ土橋であると考えられる。 (結城市教育委員会の案内板より・絵図も) |
案内板 | 城跡公園入口 | 城跡公園 |
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「館」が城跡公園になっている。右の写真は噴水なんだけど、 水が出てないと井戸っぽく見えてしまうな…(^^;) | ||
内堀(空堀) | 土橋 | 聰敏神社 |
浄水場前の館と西館の間の大きな堀にビックリ! 聰敏神社は、旧結城藩水野家の祖、水野日向守勝成公を祀る。 | ||
三日月橋 | 三日月橋の下の堀 | 土橋(中城方面) |
三日月橋を渡って先に、館と中城をつなぐ土橋があって、堀が残ってた(^^) | ||
土橋から西側の堀 | 土橋から館方面 | 土橋から東側の堀 |
土橋から西側の堀は、西館と館の間の内堀に続く堀。 (今でも続くのかな?)東側なんて竹がグダグダに…。 | ||
実城跡(右=県道の駐車場から) | ||
左&真ん中は、城跡公園から。かつてはあったんだろうけど(^^;)消滅というだけあって、跡形も無い(笑) | ||
■結城城
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