石川県 小丸山城 |
■小丸山城=見学自由 ■小丸山公園 駐車場=無料駐車場 (2008.7.26現在) |
住所=七尾市馬出町 この時は、国道159号を北上して、輪島・和倉温泉方面の国道249号へ左折。 市役所を過ぎて少し先の、小丸山公園下交差点を、右折(狭い道へ)。 少しして左側に、入口が狭い公園の駐車場がある。 |
小丸山城 | ||
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天正9年(1581)8月、織田信長より能登一国を与えられた 前田利家は、直ちにこの小丸山城を築くが、戦陣に明け暮れる 毎日なので、能登の領国支配は兄の前田安勝を城代とし、 所口(七尾)町奉行に三輪吉宗・大井久兵衛を当たらせた。 この時、前田一族を支えたのは、鎌倉時代より輪島・穴水地域の 大屋庄地頭、室町時代には畠山家臣として、能登の住民に 馴染みのあった長連龍(ちょうつらたつ)であった。 本能寺の変後の7月24日、能登逸回を目指して石動山へ入った 温井景隆・三宅長盛との合戦に利家は、金沢城主・佐久間盛政と 長連龍の援軍を得て、1日で勝利を得た。 戦後、利家は連龍と血判起請文を交わし、友誼を深めている。 天正11年4月、金沢城主となった利家は、安勝を金沢城代とすると ともに、小丸山城主とした。 安勝は、城代に長連龍を選んだ。 文禄2年(1593)9月、従四位下侍従(じじゅう)に任ぜられた利家の次男・ 利政は、能登の一部を領したので、能登侍従といわれた。 この利政は、慶長2年(1597)小丸山城に住み、同4年3月利家養老 封の内、羽咋・鹿島郡1万5千石を分与され、城主となった。 翌5年9月の関ヶ原の戦いに参戦しなかったので10月に封を解かれ、 京都に卜居(ぼっきょ)し、宗西(そうさい)と称した。 (案内板より・絵図も) | ||
駐車場 | 小丸山公園 | 歩いて行き… |
駐車場の入口が狭く、入るのも出るのも大変だった〜(^^;) そこから、城跡として残る本丸と天性丸へ。 | ||
本丸 | 利家と松子之像 | 上へ伸びる枝 |
H14.1月の大河ドラマを記念して、H13.10.10に像が作られたとか。 右は、上に伸びる何本もの枝が珍しく感じたので。 | ||
前田利家小丸山城址碑 | 本丸からの眺め(下=駐車場) | 三更橋(堀切) |
■三更橋…
この橋の名は、直接小丸山城とは関係ないが、
上杉謙信が七尾城を攻め落とした後に、
詠んだとされる詩からきていると言われている。 「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更(かがんつきさんこう) 越山(えつざん)併せ得たり能州の景(のうしゅうのけい) さもあらばあれ家郷(かきょう)遠征を憶(おも)う」 陣営より眺めた情景を、能登七尾を制した意気揚々たる心情とともに、 故郷への想いを詠う詩である。 小丸山公園の中で、月を仰ぎ見ることができる場所として、 この名が付いたのであろう。(案内板より) (右)三更橋(堀切)を下から見たもの。 |
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天性丸 | 山の寺寺院郡(前方) | |
小丸山公園を囲む外濠(桜川・御祓川)の 対岸小島町界隈は、各宗派の寺院が多く建ち並ぶ町である。 加賀藩祖前田利家公が、小丸山城の防衛のため、浄土真宗 (一向宗)以外の各派29ヶ寺を集めたのが始まりである。 現在の寺院郡は、曹洞・浄土・日蓮・法華 真言宗の16ヶ寺があり、中には前田利家公の両親の菩提寺 である長齢寺がある。(案内板より) | ||
氷室跡地 | 駐車場の紅葉 | |
氷室とは、氷を夏まで蓄えておく部屋のこと。 能登地方は雪が多い為、その雪を利用して氷室にため、 よく踏み固めて氷にしていた。 小丸山公園下の町(現在の魚町周辺)には、魚屋が多く、 魚を保存する為に、公園内の氷室の氷を利用していたといわれている。 この氷室は、昭和初期に市内に氷工場ができた頃に、無くなった。 (案内板より) (右)夏なのに紅葉。愛車と♪ |
■小丸山城
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