【田頭城】

岩手県 田頭城 いわてけん  でんどうじょう
■田頭城=見学自由
■田頭館山公園
駐車場=無料駐車場       (2007.9.22現在)
住所=八幡平市田頭第23地割1番地1
(東北自動車道 西根IC〜) この時は、国道282号を北上して、県道23号へ(八幡平、焼走り方面)左折。 小学校を過ぎて、右カーブ手前の信号を左へ行き県道233号へ。 少しすると、県道から右側に広目の道があって、そこから小高くなった 所が見えるので、そっち方面へ右折。その小高くなった所の横を通って、 そのまま進んで行くと、神社だかお寺が見えるので、そっち方面に付近の道を右折 (もう少し進んで右折すると、次の右折をしなくてもよかった。)。 また右折して、東慈寺と東慈寺保育園の間を通ると右側に駐車場。

田頭城跡
田頭城は独立隆起した51mの丘陵の上に営まれたもので、 「奥々風土記」には、岩手郡14ヶ城の1つに数えられている。 城主は、田頭左衛門佐直祐(田頭右馬允とも称した)といって、 天正の末年頃、1千余石を領し、南部家直属としてこの城にいた。 天正以前における田頭氏の消息は明らかでないが、田頭城の主として、 君臨した左衛門佐直祐は、本姓が葛巻氏であった。 天文の頃、雫石に勢力のあった雫石伯耆烝詮員の娘は、葛巻河内信祐に嫁して 二子をもうけている。その二男が直祐で、田頭氏を興し、田頭城主となった。 直祐の父、信祐は葛巻掃部亮光祐の子で、葛巻氏は南部家とも関係を結び、 南部家から分かれたともいわれている。
この地方の天正17、8年頃の勢力分布図では、松尾では寄木舘の 寄木左衛門尉義名や、谷地中佐々木舘の北彦助愛一、 その他、田頭村平笠城、平舘村堀切城の堀切兵庫、平舘城の一戸 信濃守政包、また、沼宮内には岩手民部常利らがいて、群雄割拠の観を 呈していた。 中でも平舘城の一戸信濃守政包は、平舘隠岐と改めて武威高く、 宮野城主、九戸左近将監政実が、天正19年2月、南部信直に対して 反逆ののろしを上げ、一戸、苫米地、伝法寺の三城に夜襲をかけたのに 応じ、反乱軍に加担すべく起ち上がった。一戸信濃守の軍は圧倒的に強く、 附近の反対党である沼宮内佐々木、北、寄木の各氏を攻略して、 田頭城へ潮の如く殺到した。 田頭城は平坦な頂上が本丸で、前面に段を設けて二の丸、三の丸を 構成、左右にまた数条の段があり、周囲には現在の松川が、 当時は中村から中島を通って舘の麓に達し、現在の田頭町と 森腰とに分流していたものらしく、この松川の流れを 引き入れて四囲に濠を巡らし、まことに要害堅固な城として 辺りを睨んでいた。しかし、勢いに乗った政包の軍勢は、 再三にわたって夜討を敢行、新手を繰り出し繰り出し攻め立てたので、 2千余の城兵が水も漏らさぬ守備をしいた田頭城もついに落城してしまう。 搦手から危うく脱出した城将直信は、今の大更の夏間木まで愛馬を 飛ばして、辛くも逃れたが、執拗な追撃を続ける敵兵に迫られ、 とうとうこの地で自刃して果てたといわれている。 (舘山会の案内板より・絵図も)
駐車場 駐車場から三の丸へ 三の丸へ
偶然見つけた駐車場(笑)そして、なだらかな坂を上がるんだけど、 これがなかなかキツイ。で、お次は階段…。
三の丸 二の丸 二の丸から本丸へ
二の丸から三の丸にかけて、長い滑り台が! 雨が降った後じゃなかったら、滑ってみたかったかも(笑)
本丸下の石 本丸の田頭城の標柱 本丸
でっかい石を横目に上がって行くと、本丸。 遠くゴロゴロ聞こえてたけど、雨が降らなくてよかった。
本丸の端から… 本丸からの景色
ここからの眺望がとてもいいけれど、分厚い雲に覆われていた空だけに、 岩手山は全く見えず。残念〜(^^;)
本丸の土塁 本丸橋 東屋
本丸の北側に本丸橋が堀の上(1番上で紹介した写真)に架かっていて、その先には東屋がポツンと立っている。

■田頭城
この城跡は上り口が2ヶ所あって、最初に見つけたのが郵便局側。公園用の駐車場が 無いので、もう一方の上り口を探す。館山公園の案内板を見ても詳しく書かれておらず、 この辺りかな?とフイッと県道から反れ、適当に走っていくと、なぜか到着してしまった。 それまで案内が無かったから、恐るべし相方の勘。ここに向かう道中は雨だったのに、 丁度雨が止んでラッキーな散策だぁ!と思ったら、草でジーパンの裾がビショビショに。 微妙な思いのまま本丸へ。ど〜んと見えるはずの岩手山は、天気が悪く全く見えず…。 でも、曲輪が分かりやすく、説明板もあったので、それだけでも満足な城跡だった(^^)

【 岩手のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る