岩手県 一方井城 |
■一方井城=見学自由 (別名=新館、輪台城・九井館) 駐車場=一郭に駐車したけど、良かったのかな? ←「南部信直公生誕之地」の石碑&一方井城遠景。 (2007.9.22現在) |
住所=岩手郡岩手町一方井 (東北自動車道 西根IC〜) この時は、国道282号を北上し、県道257号へ右へ。 結構走って、県道17号へ左折。川を渡って少し走ると、 昔ながらの商店が並んでいて、抜ける手前の 右側に(見落としやすい)入口がある。この時は、一郭まで車で 上がったけれど、整備されていないので、結構厳しい。 ちなみに、抜けてすぐの川沿いに「南部信直公生誕之地」 の石碑(左の写真)がある。 |
一方井城 | ||
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一方井城址は、高山(標高429m)の南端の麓から南西に広がる
丘陵地の突端約500m先に位置し、その突端の西側を北から南、東に
流れる一方井川が巡り、北側は深い堀で仕切られ、東、西、南側は、30m
位段差の急斜面で、自然の地形を利用した面積30,000u程の山城である。
城は、3つの郭からなる多郭構造で、周辺を二重、三重の堀を巡らせている。
築造された時期は、構造から16世紀頃と考えられ、現在でも館や中館、
大手花などの当時の名残りをとどめる地名や屋号が残っている。
当城は、阿倍貞任の庶流、秋田の安東氏の子孫がこの地に来て一方井氏となり、
居城として代々領有し、南部氏が南進する拠点として重要な役割を果たした。
豊臣秀吉の諸城破却令により文禄元年(1592)頃に、一方井城を含む
南部領内の36城が壊され、後年一方井氏一族は、盛岡城の築城とともに、
盛岡に移り住んだといわれている。
■南部(盛岡藩)の基礎を築いた武将 南部信直公生誕の地■ 南部家中興の祖といわれる信直公は、南部家第22代政康公の二男 石川高信(田子城主)を父に、一方井丹後安正の娘芝山芳公を母に、 天文15年(1546)3月15日に一方井城に生まれた。 幼名を亀九郎と言い、幼少時代を修験者自光坊(伝九郎利臣)から 読み書きを学び、英才雄知にして、文武に秀でた人物に育った。 永禄元年(1558)、母と共に田子城に移り田子九郎と称した。 17歳頃元服し、名を信直と改めた。 24代晴政公50歳にして男子無く、信直公は、永禄8年(1565)、 その世子となる。その後、晴政公に54歳で男子晴継が生まれ、 信直公は、一旦その地位を退いたが、天正10年(1582)に晴政、 晴継公が前後して死去し、同年37歳で南部家第26代当主として、 三戸城に迎えられ、名を南部大膳大夫と改めた。 その後、中央政界とのパイプを強め、大崎一揆や九戸政実の乱を 制圧し、領地の平定や拡大を図ると共に、盛岡への築城を 手がけるなど南部(盛岡)藩の礎を築き、戦国末期の政情不安な 激動の時代を生き抜いた武将である。慶長4年(1599)10月5日に、 福岡城で54歳で病死し、現在の青森県南部町三光寺に埋葬された。 (岩手町教育委員会の案内板より・絵図も) |
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一郭(東屋方面から。パノラマっぽく) | 一郭の東屋からの景色 | |
整備されていない道を、どうにかこうにか車で上がることが出来た(^^;) ポツーンといるのがうちの車(^^) | ||
一郭の東側 | 二郭へ(右側) | 二郭へ |
(左)東屋から一郭の東側を見ると、段があった。 (真ん中)左は来た道で、右の細い道が二郭、三郭へ向かう道。 | ||
一郭西側の空堀 | 二郭 | 二郭と三郭の間の空堀 |
ヒョイと一郭側を見ると、深い空堀が!ここで見る遺構の中で1番好き。 二郭は木が生い茂って何がなんだか…。 | ||
三郭 | 三郭北側の空堀 | 一郭西側の空堀 |
二郭と三郭の間の空堀は「?」だけど、三郭の北側のは分かりやすくていい(^^) テクテクと一郭へ戻って、散策終了。 | ||
■一方井城
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