岩手県 岩崎城 |
■岩崎城=見学自由 ■岩崎公民館 駐車場=岩崎公民館 (2007.9.23現在) |
住所=北上市和賀町岩崎 この時は、秋田自動車道 北上西ICを下りて、右へ。 (岩崎城の案内板があった。) 県道225号を東へずっと走って、岩崎運動公園入口に従って、右折。 すぐに運動公園への道は右になるけど、正面の公民館へ向かう道へ進み、 坂を上がって行くと公民館。 |
岩崎城 | ||
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岩崎城は、和賀(わが)氏(中世の豪族)が最後に籠もった城で、
和賀川と夏油川に挟まれた台地上にある。夏油川に面した
台地の断崖は、幾度もの川の氾濫で深く削り取られている。
城の大きさは南北約300m、東西約600mである。
台地上には3つの曲輪が東西に並び、中央の曲輪が本丸跡で、
現在は岩崎公民館が建っている。各々の曲輪は空堀と土塁で
区画されている。西端の曲輪(三の丸)の西は組小路といわれ、
武家屋敷が並んでいた。現在は運動公園になっている。また、
台地の北崖下には城内地区があるが、そこは普段の住まいのある
二の丸があったところである。城内地区の中央を東西に古道が
延び、それに沿って堀や土塁があり、屋敷群があったと言われる。
今から1200年前、坂上田村麻呂の老臣岩崎翁が、この辺りを 開拓し、翁の名が岩崎の地名になったとも伝えられている。 のち、この領地を治めた岩崎氏は和賀氏の一族となり仕え、 弥衛門義彦の代まで栄えたが、領主和賀氏が、天正18年 (1590)の義忠の頃、秀吉に故なく領地を没収され、 南部領となった。 慶長5年(1600)、義忠の子の和賀忠親は、旧領地を奪い返すため、 一揆を起こすが失敗し、ここ岩崎城に籠もり南部勢と激戦に なったが、翌年4月、城は遂に陥落した。 岩崎城が造られた時期は、正確にわからないが南北朝時代には 既にあったと思われる。天正20年(1592)には、豊臣秀吉の 命令により南部氏によって破壊された。岩崎一揆の後には、 南部家臣の柏山伊勢守明助が入城したが、その後いつまで 続いたかははっきりしない。 (北上市教育委員会の案内板より) |
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大手門跡 | 土塁 | 三の丸 |
急坂を車で上がって行くと、右側に大手門跡の石碑があって、 そこ過ぎて振り向くと土塁。すぐ三の丸が広がる。 | ||
本丸橋(三の丸側から&本丸側から) | 本丸橋から空堀 | |
三の丸と本丸を結ぶ橋の下には、大きな空堀が♪ 片方には墓石らしきものが見えたので、こっちだけ(^^;) | ||
本丸(岩崎公民館) | 枡形(本丸) | 土塁(本丸) |
本丸には天守風な公民館が(^^)それにしても、 こんな小高いところに公民館があるのは驚きかも(^^;) | ||
■岩崎城
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