【徳丹城】

岩手県 徳丹城 いわてけん  とくたんじょう
■徳丹城=見学自由
■矢巾町歴史民族資料館
駐車場=矢巾町歴史民族資料館 (2007.9.23現在)
住所=紫波郡矢巾町西徳田
(近いのは、東北自動車道 盛岡南IC)
この時は、国道4号を南下して、県道207号と208号との 交差点を過ぎて、徳丹小学校(小学校横は政庁跡)を過ぎて、徳丹城の看板が あって、歩道橋を過ぎてすぐ右側に、矢巾町歴史民族資料館の入口。 スピードが出やすい道なので、縁石が切れた所を通り過ぎやすいので注意。

徳丹城
徳丹城は、弘仁3年(812)の3月頃、時の征夷将軍・文室綿麻呂によって 造られた律令制最後の城柵である。雫石川の水害で被害を受けた 志波城を解体し、遷し建てられたもので、造営工事には2,000人もの 鎮兵が動員された。 遺跡の形状は概ね正方形を示し、その大きさは一辺約350mある。 北辺を除く東・西・南の三辺は丸太が並び立つ柵列であったが、 北辺のみは築地と呼ばれる土塀であった。 この柵列・築地を総じて外郭線と呼ぶが、その内外には溝が廻り、 城の外周を区画している。外郭線四辺の中央部には三間一戸の 八脚門が建つ。この東・西・南・北門を中心に推定17棟の 櫓が、70m程の間隔で外郭線を跨ぎ取り付く。 一方、遺跡の中心部には、正殿や東・西の脇殿が配置された 政庁(内郭)があり、役所の中枢としての格式を保っている。 内郭の周辺には、いくつかの官衙(役所)群が 存在するが、現在、その実態は詳らかではない。
9世紀の中頃に至って、徳丹城は衰退したと考えられている。 (矢巾町教育委員会の案内板より・絵図も)
徳丹小学校 徳丹城跡石碑 徳丹城横の政庁跡
徳丹小学校の国道側に、立派な城址碑と説明板があって、 近くの歩道橋からは、徳丹城跡が見渡せられる(^^)
政庁跡
遺跡の中央北寄りに位置し、徳丹城の中枢機能を もつ施設である。東西76.332m、南北76.762mの 範囲を板塀で区画し、板塀の西辺と南辺の 中央では門が発見されている。南門は四脚門であるが、 西門は不明である。また、北門と東門は未発見である。 区画の中央には正殿が配置される。四面に濡れ縁を 回す堂々とした建物である。また、前面の東西には 脇殿が配置される。向かい合う中三間だけに濡れ縁を付ける。 脇殿は掘立柱建物から礎石立ち建物に建て替えられているが、 その時期は不明である。 (矢巾町教育委員会の案内板より・絵図も)
外郭北門跡(徳丹小学校校門前) 外郭東門跡付近?
北門は、外郭北辺の中央に位置し、八脚門の規模になっている。 北門の外側には外大溝がコ字状に張り出し、橋が取り付けられ、 門の左右には推定3~4mの樹木が立て並べられ、約70m間隔に 櫓が設置されている。(矢巾町教育委員会の案内板より) 歩けども歩けども石碑が見当たらない。 作られていないのか、見つけられなかったのか。 どっちなんだろう?
外郭西辺 矢巾町歴史民族資料館
外郭線は、推定3~4mの柵木が立て並べられ、 約70m間隔に櫓が設置され、内側と外側には 溝が取り付けられていた。(矢巾町教育委員会の案内板より)
佐々木家曲家(矢巾町歴史民族資料館の横)
東向きの母屋の北端に、南向きの馬屋が取付く典型的な 南部曲家である。藩政時代には、村役を務めた農家 だったため、建坪は90坪と大きい。母屋は基本的に 食い違い四間取り型式の前常居型で、土間寄りに 常居と寝間があり、その南隣には上・中・下の 畳敷きの座敷が外庭に面してある。外庭には、 塀中門(兵従門)があり、座敷と一体化した格式の 高さを伝えている。町内藤沢にあったものを、 昭和62年、移築復元した。(矢巾町教育委員会の案内板より)
外郭西辺(信号から) 外郭南門跡(徳田神社) 湿地帯の櫓跡
矢巾町歴史民族資料館から少し歩くと徳田神社。 でも、石碑が撮り辛~い(^^;)付近の田んぼには櫓跡の案内板が。

■徳丹城
矢巾町歴史民族資料館へ車を置いて、外郭西辺を見学。 その後、外郭南門跡の石碑を見に、徳丹神社へ歩いていった。 じゃあ、東門跡もあるかな?と向かうも、見当たらない。 その後、徳丹小学校付近の北門跡、石碑を見学。へとへとに 疲れてしまった。改めて徳丹城の広さを感じた。 というか、車で回ればよかった(^^;)

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