トロとまったり・tripのページ(鶴丸城(鹿児島城)付近+α)

鶴丸城(鹿児島城)付近+α


■薩摩義士碑=写真上方・真ん中にある現在地の左側の△の絵がある所。
■西郷隆盛銅像=写真下方・真ん中よりやや右側で、人の絵がある所。
■中央公民館・西郷南洲翁終焉百年記念之碑=下方にある緑色の中央公園の上部にある建物が中央公民館。
■小松帯刀像=下方にある緑色の中央公園の上方にあり、中央公民館の横の建物付近。 見えにくいけど、表示がある所。

(左の地図には載っていないけど。)
■若き薩摩の群像=鹿児島中央駅の東側。

薩摩義士碑

■神になった薩摩義士…80余名の犠牲の上に、沈黙した暴れ川。岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者を祀る神社がある。 治水神社と言い、今も宝暦5年(1755)の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝が絶えない。 愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野は、今でこそ豊かな土地に生まれ変わったが、 昔は川床の高さが異なる木曽、長良、揖斐の3河川が合流し、度々大水害を引き起こしていた。 宝暦3年(1753)幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩は早速家老の平田靭負(ゆきえ)を総奉行に任じ、 約1,000名を派遣した。平田は大阪の商人から22万両を借り工事に取り掛かったが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めた。 さらに、監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死する者が続出。 完成までの1年3ヶ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していた。平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。 藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業を公表されず、大正9年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられた。(鹿児島市の案内板より)

西郷隆盛銅像

■敬天愛人・天を相手に人生を全うした誠心の英雄… 西郷隆盛は幕末維新の指導者で、明治天皇の信頼が厚く、日本最初の近衛都督陸軍大将になった。 文政10年(1827)下加治屋町郷中に生まれた西郷は、幼名を小吉、通称吉之助といい南洲と号した。 青年時代に二才頭として農政に関する意見書を提出。 藩主島津斉彬の目にとまり側近に抜擢され、国事への関心を高めた。 ところが、その斉彬が急死。勤皇僧月照と錦江湾に投身、一人生き残って大島に流された。 その後、大久保利通らの助けで幕府を倒す運動に復帰。 藩論を指導し、薩長連合を結んで、王政復古の大号令を決行。東征大総督府参謀として江戸無血開城を実現した。 新政府が樹立した後は、参議として廃藩置県を断行。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが外遊中の政府を預かった。 明治6年(1873)遣韓使節をめぐる政争に敗れて東京から鹿児島に帰った後は、私学校を開き後進の指導にあたったが、彼らの血気に押され、ついに西南戦争へと突入。 明治10年(1877)最後は城山で自刃した。 この銅像は、郷土出身の彫刻家・安藤照が習志野大演習で、陸軍大将の制服を身につけた西郷の姿を思い描き製作したものである。(鹿児島市の案内板より)

中央公民館
桜島溶岩 赤石

【左】形が凄く素敵(^^)
【真ん中】西郷南洲翁終焉百年記念之碑。中央公民館の所。
【右】安永8年(1779)の桜島の噴火の火砕流のものらしい。

小松帯刀像

中央公民館の前から西郷隆盛像を写した後、宝山ホールへ進むとあった。

小松帯刀は天保6年(1835)、喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利(日吉町)の領主小松家の養子となり、小松帯刀と名を改めた。 子供の頃から、学問や武芸に優れ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通等を重要な役目に付けた。 寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍した。維新後も外交官など要職についたが、34歳で亡くなった。 この小松帯刀像は、慶応3年(1867)に、15代将軍慶喜が、二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うた時、 薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が「大政を奉還すべき」として他藩にさきがけて記帳した時の様子をイメージして造られたもので、 三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社を向いて建立されている。(鹿児島市の案内板より)

若き薩摩の群像&街灯

【左】鹿児島中央駅の東側の鹿児島中央駅東口信号付近で、車内から写したもの(^^;)
【右】鹿児島中央駅北信号付近で、島津氏の家紋の丸に十の字の装飾が、見られた(^^)

鶴丸城(鹿児島城)+α 2012.5.1記

西郷隆盛銅像が、あんなに高い所にあるとは思わなかった!! そして観光客も多かった。さすが西郷さんだ。小松帯刀像は、ひっそりとしてたけど。 島津斉彬銅像等、像も史跡もたくさんあったけど、 次の予定も考えて、どうしても見学したかったものだけを…。

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