トロとまったり・tripのページ(舞鶴城)

鹿児島県 舞鶴城

かごしまけん まいづるじょう

■舞鶴城(別名=国分新城)=見学自由
■国分小学校・国分高校
駐車場=無し
(写真)朱門。

2012/5/1現在

住所=霧島市国分中央2丁目
城山公園の西側にある国分小学校と国分高校。 (国分駅の東南辺り。)駐車場は無いけど、 伊勢橋から国分高校側の前に、1台ほどのスペースはあった。 でも、駐車していいかは?なので、参考までに。

舞鶴城

国分新城とも呼ばれている。島津義久は、慶長9年(1604)富隈城から移居した。慶長16年79歳で死去するまで在城した。 後に義久の三女の亀寿姫(かのじゅひめ)が、寛永7年(1630)死去するまでの20年間を、この城で過ごした。 その後この城の隣接地に地頭館がおかれ、清水・襲山(現在の重久)・敷根の各地頭館と並んで、国分郷の政治と警備の中心として、幕末に至っている。 舞鶴城は、山城の南麓に造営され、 平時は軍事、行政が執行されるが、戦時になると城山(隼人城)に立籠もるという方法が取られた。 築城の際、山麓一帯(現在の市街地)も城に合わせて区割りを行い、碁盤目のような整然とした町並みは、現在の市街地の基盤となっている。 舞鶴城は、天守閣を持たない「屋形造り」で、現在は南側に石垣と堀の一部を残すのみである。(国分市の説明碑・霧島市教育委員会の案内板より・絵図も案内板より)

池之馬場通り(犬追馬場線)

【左】国分小学校から国分高校の南側の道。
【真ん中】小学校側に、池之馬場通りの碑がある。
【右】高校側から。

小学校西側から南方面

【左】小学校の西側の隅の石垣。
【真ん中】左の写真付近から南方面。
【右】逆から。鯉のぼりが飾られていた♪

朱門

舞鶴城内陣の門であったものを市内重久の細山田家の祖先が、 領主島津義久公より拝領したものと伝えられているが、 記録も無くはっきりした事は分からない。 昭和38年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風の為倒壊した。 昭和50年、国分市の市制20周年事業の一環として、朱門を修復し、ゆかりの舞鶴城に復元した。 (国分市の朱門の説明碑より)

【左】外側。
【真ん中&右】内側。内側から見れるとは思わなかったので、嬉しかった(^^)

【左】堀側から。奥まった所に朱門が立つ。
【右】正面から。

【左】朱門手前の右側の石垣。
【右】朱門の内側から校内を。

朱門の手前の石橋

妙に気になる石橋(^^)正面からも雰囲気があるし、横から見ると、石の形も面白くて、興味深い石橋。

小学校の南側の石垣

【左】小学校の端で、手前が伊勢橋。
【真ん中】伊勢橋から。なんだか、ボコッと石が出てきそう。
【右】伊勢橋方面。

伊勢橋

【左】小学校と高校の間の橋。
【真ん中】橋手前には、伊勢神社の碑と石燈籠。
【右】伊勢橋から高校の前の堀を。

舞鶴城屋形跡の碑
島津義久公伊呂波歌
島津義久公の辞世の句

【真ん中】小学校の校門手前に架かる橋の近くに、2つ立っている。 写真奥に小さく見えるのが2つ目。

伊呂波歌・写真手前「人のよき人のあしきをみてハ わか身をみかくへき  鏡ともせよ」
伊呂波歌・写真奥「天道はふたりの親に孝あるを まもるへきとの  ちかひとそきく」
辞世の句「世の中の 米と水とをくみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」

与謝野晶子・寛(鉄幹)の碑
頌徳碑
孝子の碑

池之馬場通り(犬追馬場線)は、舞鶴城等の碑の他、この様な碑も立つ。
【右】写真右端に写る碑は、健児之碑。

舞鶴城 2012.5.1記

小学校と高校の南側の堀と石垣と朱門だけだけど、結構良かった♪
堀の鯉幟りのほのぼの感がいい。
ちなみに見学時間は、のんびりしたので約15分。

(写真)国分小学校前信号近くの池之馬場通り(犬追馬場線)側の建物の壁に、島津義久関連の史跡案内図が掲げられていた。

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