トロとまったり・tripのページ(野間之関)

鹿児島県 野間之関

かごしまけん のまのせき

■野間之関=見学自由
駐車場=無料駐車場

2012/5/3現在

住所=出水市下鯖町
この時は、国道3号と国道447号が交わる所の米ノ津交差点を過ぎて右斜めの道へ。 米ノ津駅の前の道を進み、案内に従って右折、少し走って案内に従って左折。

野間之関

野間の関は、関ケ原戦(1600)前後に、 薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったこの地(野間原)に設けられた。 島津藩から派遣された出水の地頭は、代々国境の警備が重要な任務であった。 藩政時代の領外への主要陸路は、出水、大口、高岡の三筋で、中でも出水筋は最重要視された。 それぞれの藩境の要地に関所を設け、さらにその左右の間道に辺路番所が置かれた。 野間の関の周辺には、狩集・草木原・芭蕉・青・椎・上場・切通に辺路場所が置かれ、水も漏らさぬ警戒陣であった。 藩境の境川(当時は橋はなかった)は、4km先である。 ここには、関守として8人の郷士が駐屯しており、辺路番所にも番人が駐屯していた。 関の規則は時代によって異なるが、他領への旅行者や物資の出荷を検査し、無証文の者は絶対に入れなかった。 江戸時代後期の尊王思想家・高山彦九朗や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した記録が残っている。 「薩摩びといかにやいかに刈萱の関も鎖さぬ御代と知らずや」 これは、薩摩に入ろうとした尊王思想家・高山彦九朗が、大宰府の刈萱の関さえも通してくれる時代なのに、 野間の関で足止めされたことに憤慨して詠んだものである。 徳川泰平の世となり、各藩は国境の警備を緩めたのに、薩摩藩はその藩体制を堅持する為に、ますます取締りを強化したのである。 しかし、明治維新、廃藩置県を経て、野間の関もその役目を終え、関所の跡をとどめるだけに至った。(出水市教育委員会の案内板より・絵図も)

駐車場とトイレ
野間之関跡
古井戸

【左】敷地内に、駐車場とトイレがある。
【真ん中】玉石が積まれている。
【右】野間之関所で使用されていたもの。

野間之関趾の碑 // 薩摩街道出水筋

【左】野間之関趾の碑。野間之関趾の字は、東郷平八郎元帥の書だそう。
【真ん中&右】薩摩街道出水筋。関所前の道。関所跡だけが異空間みたい。

水路
帰り道に
米ノ津橋のツル

【左】これは、名残なのかな?
【真ん中】案内板が曲がってる…。
【右】出水が鶴の渡来地だからみたい。

野間之関 2012.5.3記

朝、8時半だからか静か。当時は厳しかった関所も、今ではポツンと取り残された異空間のよう。 ちなみに、見学時間は約5分。 そういえば、この時は、案内板が違う方向を向いてたので、気を付けた方がいいかも(^^;) おかげで、すぐに着くはずが、遠回りをしてしまったから(^^;)

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