トロとまったり・tripのページ(富隈城)

鹿児島県 富隈城

かごしまけん とみくまじょう

■富隈城=見学自由
■稲荷神社、稲荷山公園、NHK鹿児島放送局。
駐車場=稲荷神社の無料駐車場。
(写真)稲荷神社の入口の車道側の石垣。

2012/5/1現在

住所=霧島市隼人町住吉
この時は、隼人駅の東側の国道223号を南西に進み、県道471号との見次信号を過ぎて、少し走って、 左側のドラッグイレブンというお店の前の道へ(案内板あり)進む。その後、右側の公民館を過ぎて、 ゆっくりと気を付けつつ進み、木がこんもりした所が見える路地へ右折。稲荷山公園の入口を過ぎて、 その先の神社入口から奥へ入ると駐車場。

富隈城

富隈城は、島津16代義久によって築かれた城で、平地にあり、小山を本丸がわりにした平山城である。 この城は東西約150m、南北約250mの方形で、西・東・北側に堀があったと言われ、現在は北と東側に堀の跡が残っている。 城の造りは、天守閣が無い館形式で城門も茅葺きであったということである。 西側や東側には、野面積みという技法で積まれた石垣が残っているが、 これは肥後(熊本)八代の種山の石工達が築いたものだと伝えられている。 義久は、文禄4年(1595)から慶長9年(1604)まであしかけ10年間ここに居住した。 義久が富隈に来たのは、豊臣秀吉の島津征伐に敗れ、降服した意思を表す為、 鹿児島の城を弟義弘の息子家久に譲り、富隈に隠居の形をとったためだといわれる。 義久在城の間、朝鮮出兵、関ケ原の戦いなどが相次ぎ、日本は激動し、島津氏にとっても苦難の時代だった。 義弘が関ケ原で家康の本陣を突き、敵中突破して僅かの家臣と帰り着いて、兄と対面したのもこの富隈城だった。 朝鮮出兵にも富隈衆が多数参戦した。 また秀吉の勘気に触れ、文禄元年(1592)薩摩の坊津に流された近衛信輔 (関白の位に就く、書道の達人で三藐院流の祖)も、文禄5年(1596)許されて帰京の途中この城に立ち寄り、 歌会や能楽等を行っている。(霧島市教育委員会の案内板より)

稲荷神社へ

【左】稲荷神社入口で左側(車道側)の石垣。
【真ん中】左の写真の右側(石段)の石垣。
【右】駐車場。

富隈城跡の碑
稲荷神社
小高い丘へ

【左&真ん中】駐車場から神社への石段の左側に立ち、石段を上がると稲荷神社。
【右】本丸代わりの小高い丘へ。

頂部&景色

【左】小高い丘の頂部へ。ボケ気味。
【真ん中】頂部はこじんまり。
【右】正面は桜島。雲が多くて、上部はかくれんぼ。

【左&右】隼人城の遠景。観覧車と展望台が見える♪

稲荷山公園

稲荷神社北東側の公園。
【左】公園の東側の入口付近にも石垣が続く。
【真ん中】入口。 【右】北東側の曲輪部分。

【左】稲荷神社側で見た小高い丘を北側から。
【真ん中】北側の曲輪部分。 【右】公園の北東隅を下から。

NHK鹿児島放送局側の曲輪の石垣

【左】稲荷神社東側の入口側からNHK側の石垣(入口方面)。凄く格好いい♪
【真ん中】入口の中にも石垣が続く♪
【右】真ん中の写真の左側。

【左】NHKの入口から神社方面。
【右】左の写真の左側から南東へは、石垣ではなくなっていた。

【左&真ん中】南東隅部分。霧島市のHPによると、 この巨石は清正石といい、加藤清正寄進と伝えられているそう。 案内板が無いから、見学時は大きい石だなぁ…くらいしか思ってなかった(笑)
【右】南側には石垣が残ってた。立派な石垣(^^)

堀跡

【左】NHK側の東側の堀跡。
【真ん中】手前に水路が流れてて、不思議な感じ。
【右】堀の名残りがよく分かる。

おまけ

【左】稲荷山公園で見かけた鳥♪
【右】国道223号沿いの街灯。お洒落な感じ。

富隈城 2012.5.1記

西側は、走行中の車から見ただけで写さなかったけど、東側の石垣が凄く格好良かったから大満足! ちなみに、見学時間は約20分。

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