かごしまけん うちじろ
■内城=見学自由
■大龍小学校
駐車場=無し
(写真)写真右より、小学校の旧門柱、
その左側に文之和尚記念碑と大龍寺之遺址の碑、
それから少しだけ内城に触れた説明板。
2012/5/1現在
住所=鹿児島市大竜町
鹿児島駅の北側の国道10号の北側にある大龍小学校が城跡で、この時は、
大龍小学校の南側の校門付近に、説明板があり、北東隅に上之馬場の碑があった。
【写真】写真真ん中が、文之和尚記念碑。 手前の低いものが、大龍寺之遺址の碑。
■文殊堂から黒衣の外交官へ…儒教僧文之(ぶんし)和尚が開いた学問の寺院… 戦国時代、田布施(鹿児島県南さつま金峰町)にいた島津家15代貴久は、 跡目争いで薩州島津家実久(さねひさ)を敗り、この場所に内城を築き、移り住んだ。 以来50年、内城は島津氏の本拠として城下町の中心だったが、18代家久の時、鶴丸城が築かれ廃城となった。 その跡地に建立されたのが瑞雲山大龍寺である。 臨済宗に属し、寺号は内城を居城とした貴久・義久のそれぞれの号「大中」と「龍伯」に因んでつけられた。 開祖には南浦文之が招かれ、朱子学を我が国にもたらした桂庵玄樹の学風を伝える儒僧として、その教えを広めた。 文之和尚は、弘治元年(1555)日向(宮崎県)飫肥に生まれ、文殊童と呼ばれるほどの才児で、 串間の龍源寺の一翁玄心によって桂庵の教えに触れた。 著作の中で、「南浦文集」に収められた「鉄炮記」は、我が国への鉄砲伝来を知る貴重な資料と言われている。 また文之和尚は、義久、義弘、家久の3代に仕えた政治顧問としても有名で、琉球政策などに手腕を発揮し、 黒衣の外交官といわれた。元和6年(1620)死去、鹿児島県加治木の安国寺に葬られている。(鹿児島市の案内板より)
【左】まだ子供達がいる時間なので控えめに(^^;)
【真ん中】手前の説明板が蓑懸松で、内城や大龍寺があった頃、ここに松があり、人々が雨の日に蓑をかけて、城や寺に参ったらしい。
【右】北東隅にあった碑。
大龍寺の碑等の反対側。
この地は、第27代島津斉興が政策の重点課題とした「海防と武備」の中の洋式砲術の訓練所の跡である。 アメリカのモリソン号が、山川沖に来航した天保8年(1837)を機に、斉興は洋式砲術の採用を決めた。 翌年、鳥居平八、平七兄弟を長崎に派遣して、高島秋帆(しゅうはん)の洋式砲術を学ばせた。 そして、弘化4年(1847)8月、砲術館をこの地に開き、平七(改名して成田正右衛門)を師範役とした。 弘化5年(1848)9月、吉野原で砲術の訓練を始めた。 同時に砲台の建設も始めた。大砲鋳造や小銃を造る場所は、上町築地(現在の浜町)の弁天社のかたわらに建設した。 第28代島津斉彬も積極的に洋式砲術を取り入れ、力を注いだ。弘化3年(1846)8月、谷山の中塩屋(現在の射場山)で、 成田正右衛門が師範役として砲術の訓練を実施した時の「問答書」も残されている。 安政元年(1854)1月5日、洋式騎兵を創設し、17日には吉野原で砲術の大訓練を実施した。 また、同年12月12日に、洋式軍艦が完成し、昇平丸と命名した。大砲は磯の集成館で造り、 海岸の砲台も整備した。安政5年(1858)7月8日、天保山においての砲術の大訓練が最後となった。(案内板より)
内城 2012.5.1記
駐車場が無いので、だんにゃが車で待機の分担制(^^;) 小学校の校門横に、説明板や碑等があるけど、夕方だったから生徒がずっといて、気まずかった…(^^;) ちなみに、見学時間は約5〜6分(上之馬場まで歩いたので)。