神奈川県 小机城 |
■小机城=見学自由 ■小机城址市民の森公園 駐車場=なし(近隣では見つけられなかった) (2005.8.27現在) |
住所=横浜市港北区小机町 この時は、第三京浜道路 港北I.Cを下りて左へ進み、 橋を渡って、(消防署が左にある)次の新矢之根信号を右折。 すぐに信号があって、右折。ぐる〜っとした道を進んで行き、 線路を渡ってそのまま進んで、泉谷寺交差点を県道12号へ左折。 第三京浜道路をくぐった後、小机辻交差点を過ぎてすぐ 左にコインパーキングがあって、 今回はそこに駐車した。あとは少し遠いけど歩いて行った。 |
小机城 | |
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■小机城…
築城の年代は明らかではないが、おそらく、この辺りがひらけた
12世紀以降ではないかと思われる。その頃は、この辺りは上杉氏の
勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があった事から、
それと係わりのある城と思われる。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して
反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城に立て籠もり、
北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋附近)に帯陣した上杉方の
大田道灌の率いる軍と戦った。
城は文明10年(1489)攻め落され、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、
小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていた。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として
再興した。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、
この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果すことになる。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、
4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として200名の知行を与えられ、
近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、
その歴史を閉じる事になった。
(案内板より)
■小机城の縄張… 半島形の突出た丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つ程度の 曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に、腰、帯曲輪を築く。 また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりと巡らす縄張で 後北条氏特有の築城法と言える。類例より、後北条、後半の 築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの 型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえる。 (案内板より) |
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なだらかな坂を上がって | 右に歩いて行くと… | 空堀 |
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1番上で使った写真は、右の写真を上から見た空堀(^^) | ||
井楼跡(せいろうあと) | 櫓台 | 二の丸 |
■櫓台… 櫓は、矢蔵すなわち兵庫や、高櫓(こうろう)、井楼(せいろう) と呼ばれる「火の見やぐら」のような見張台を言う。そして、 近世初期(15〜16世紀)の成郭の天守閣の一源流とも考えられる。 天守の無い時代に展望を目的とした櫓台があったと思われる。 一城には数箇所の櫓台が置かれ、この櫓台跡もその1つで、 土塁と連続して作られていた。現在は畑地として土塁は取り去られて いるが、昔は井楼跡より二の丸広場へ通じる散策道の上に土塁が作られていた。 (案内板より) やたらと蚊に追いかけられた二の丸(^^;)大変だった〜! | ||
本丸への土橋(横から&正面から) | 空堀 | |
■空堀… 本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗する為の堀で、 この城址では、堀上部の幅12.7m、堀底の幅5m、深さ12mからなる 水の張らない空堀。 空堀の堀幅や深さはまちまちだが、調査によると中世の山城は 3m、平山城は9mから12mがその平均の堀幅になっている。 (案内板より) 太陽の光が当たって、とってもいい感じの土橋(^^) | ||
本丸跡 | 小机城石碑 | |
本丸跡では少年達が野球をやってた。ボールが何個か 行方が分からないらしく、探してた子達も(^m^)大変だ。 |
小机城石碑は、冠木門下付近に ちょこんっとあった(^^) |
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第三京浜道路 | この階段を下りて富士仙元へ | 第三京浜道路が上に |
(左)真ん中の写真の階段から、第三京浜道路がよく見える。 小机城分断! | ||
この階段を上がって富士仙元へ | 右からやって来て… | 前を見るとこんな感じ |
この階段、なかなかきつかった(^^;) | 多分、ここなんだろうけど花壇と鬱蒼と した木に囲まれているだけ(^^;) | |
富士見台 | 足元に… | そこからの景色(^^;) |
11/3〜2/11の 晴天の日の午前中が最高って、少ししか見えないよ? | ||
小机市民の森の案内棒 | 小机城遠望 | 日産スタジアム(2005.8.27現在) |
■小机城
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