【大庭城】

神奈川県 大庭城  かながわけん  おおばじょう
■大庭城=見学自由
■大庭城址公園
駐車場=無料駐車場(下記以外=9時〜16時半)
※5月〜9月=9時〜17時半   (2009.1.12現在)
住所=藤沢市大庭字城山5230-1
この時は、新湘南バイパス 藤沢I.Cから 真っすぐの国道1号へ行き、少しして 城南交差点で県道43号へ左折。 舟地蔵信号を左折して、少し先の大庭・小糸信号の次の信号を右折。 すぐ右折して、その先の川を渡って、まっすぐ。右側に駐車場がある。

大庭城
大庭城は、相模台地の南端部に位置し、城山と呼ばれる 海抜40mほどの台地上に築かれた中世城郭である。 かつては南北800m、東西250mほどの台地の全域を城域とし、 三本の空堀によって、一の郭、二の郭、三の郭、 四の郭に分かれている。 城山の北に駒寄・二番構、東に門先、 西に裏門・城下などの地名が残ることから、その周辺にも 城に関連する施設があったといわれている。 1970年代に台地の北側が宅地化され、現在は南部の450mほどが 城址公園として名残をとどめている。
大庭地区は、かつて縄文・弥生時代から人々が集落を営んでいる 所でもあった。平安時代後期(12世紀頃)には、 桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政が、大庭を中心とした 広大な所領を開発し、伊勢神宮に寄進した。 この土地が大庭御厨である。 大庭城は、鎌倉権五郎景政の子孫が後に大庭姓を名のり、 源平合戦で有名な大庭三郎景親が居城したのが始まりといわれて いるが、明らかな記録は無い。
室町時代中頃(15世紀後半)には扇谷上杉定正の執事、 太田道灌が本格的な築城を行ったと伝えられている。 扇谷上杉氏の守る大庭城は、永正9年(1512)、 北条早雲に攻められて落城し、その後は北条氏の支配下に 入った。やがて、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、廃城となった ようである。
明応8年(1499)の「玉隠和尚語録」は、大庭城に関する唯一の 確実な資料である。ここで、建長寺住持玉隠は、扇谷上杉持朝の 子弟について触れた中で、「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」と 述べている。つまり扇谷上杉氏の「一人」が大庭城で守りを固めており、 かつての大庭氏の館はその近くにあったというのである。 この記述から、当時の大庭城主である「一人」とは扇谷上杉朝昌であり、 「館」が「タテ」「タチ」とも呼ばれたことから、大庭氏の館は 大庭城址南西の城(たて)にあったと考えられている。 (管理事務所や説明板より抜粋)
四の郭(かな?) 空堀 城址碑
(左)広い公園だったから、どこを写したんだか…(^^;) 多分、四の郭…。 (真ん中)怪しい石ではなく「からぼり」。
三の郭
(左)二の郭と三の郭の空堀近くから三の郭を。 (真ん中)三の郭と二の郭の空堀。 (右)三の郭の土塁。
二の郭
(左)チビッコ冒険広場を見つつ、南の一の郭へ向かう。 (真ん中)一の郭と二の郭の間の空堀♪ (右)梅側の空堀。
いい匂いがするなぁ〜♪って思ったら、梅が咲いていた(^^) やっぱり、梅の香りって好きだなぁ♪
一の郭
ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、 北側の郭と区画されている。 周囲には、土塁の跡が部分的に見られ、東斜面には 腰郭、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が 残っている。 この石柱は、昭和43年の発掘調査で確認された 高床建築の柱穴の配列(掘立柱建物址)を 示したもので、実際の柱穴は現地表下50cmに 保存されており、これは原位置ではない。 この他にも幾つかの遺構が発見されているが、この郭が 大庭城の中でどのような役割を果たしたかは、今後の 全面的な発掘調査をまたなければわからない。 (案内板より)

(左下)掘立柱建物址。 (下真ん中)城址碑。(右下)一の郭から南へ下りる道。
振り返って… 腰郭 小曲輪と一の郭の堀切
一の郭から南へ下りると、 東側に腰郭、西側には小曲輪と一の郭の堀切 が見ることができた(^^)

■大庭城
公園になっていても、空堀や土塁など、城跡を感じさせてくれるので、 楽しい見学ができた♪ 管理事務所で縄張図や説明パネルも見ることができるのも嬉しい。 ただ、入りづらい雰囲気だけど(笑)

【 神奈川のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る