こうちけん あさくらじょう
■朝倉城(別名=重松城)=見学自由
駐車場=無し
2008/5/2現在
住所=高知市朝倉城山
この時は、国道33号を西へ進み、県道38号へ。朝倉駅前で県道38号が左になるので左折。
少し進んで行くと、あけぼの町2丁目と書かれた所に、朝倉城跡の案内板(北城山バス停の向かい側)が右側にあるので、そこを右折。
進んで行くと、途中で分岐があるので、上るように右の道へ。上がって行くと、右に公民館があって、そこに朝倉城の案内図がある。
古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶(ばいけい)は、 天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、 軍事的・地理的に重要なこの地に築城して天文9年(1540)ここに移った。 永禄3年(1560)にはじまった長宗我部氏との激突は数度に及んだが、 勝敗は決せず、梅慶の後を継いだこの茂辰(しげとき)は、不利な形勢と朝倉城死守の困難をさとり、 永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。 詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、 竪堀も深く残っている。県内髄一の規模を誇る中世城跡である。(高知市教育委員会の案内板より・絵図も)
【左】案内板をクリック→拡大。
【左】ここから住宅街へ入り、すれ違いに大変な狭い道を進み公民館へ。
【真ん中】駐車場が無いので、無理やり公民館前へ駐車。
写真の道を、左へ歩いて行くと、車は無理だろ…な激狭で、進まなくて良かった〜と思いつつ、西登り口へ。
マムシに注意という看板があったので、ドキドキしながら進むと、 すぐに素敵な竪堀や土塁が♪
写真では、藪化して見えるけど、ちゃんとした道で、空堀もよく分かるし、なかなか素敵♪ マムシは怖いけど…(^^;)
石積みを見つつどんどん進むと、ちょっと狭い道に。 その横付近は、三ノ段の辺りかな?それにしても、凄い竹薮!
二ノ段と三ノ段は、どこからどこまでって感じが分からないので、案内図を見つつ…で。
【右】詰西ノ段の手前は堀切。
【左】詰の段と詰西の段の間。右上で紹介した堀切を詰ノ段側から。凄く大きい!
【真ん中】井戸付近から。【右】この辺りにも石積みが。
城山北部の標高102mの山頂に、詰ノ段を築き、その東南下へかけて二ノ段、三ノ段などをつくって、 それぞれの外側には土塁を巡らし、尾根には堀切を、斜面には竪堀や空堀を掘って、敵の攻撃に備えている。 詰ノ段一帯、二ノ段、三ノ段の東南下にかけては、開墾されて畑にされた為、土塁等は殆ど残っていない。 また詰ノ段と大きな堀切を隔てた西側の尾根も畑となっている。 西の尾根を上りつめた所に、茶臼ケ森という高台があるが、この高台の下には空堀が巡らされ、 周りには堀切や竪堀があって西からの攻撃に備えている。 また詰ノ段には井戸と伝えられるものもある。県下随一の規模を誇る中世の山城である。(高知市教育委員会の案内板より)
【左&真ん中】朝倉城跡碑。【右】詰ノ段から東。
この井戸は、詰の段から北西へ一段下がった所に残存している。 南国市の長宗我部氏の居城である岡豊城でも、詰の段と二の段との接続部に井戸が設けられており、同じ様な配置である。 山城では、水は食糧とともに籠城の時の生命線であるので、水源の確保のために井戸を掘り、その井戸に上屋をかけて厳しく管理していた。 地元の古老の言い伝えによれば、井戸は渇水期でも枯れることはなかったという。井戸水は、朝倉城が廃城となった後には、農業用水として重宝がられていた。 現在の井戸は、昭和21年(1946)の南海大地震で周りの石積みが崩れたために、地元の人々が積みなおしたものである。(高知市教育委員会の案内板より)
【左】井戸の横の長く続く石積み。
朝倉城 2008.5.2記
すれ違うのに大変な狭い道を進んで、公民館まで辿り着くも、駐車場が全く無くて焦る。 公民館の奥は月極めっぽいので、公民館前に邪魔にならないように、駐車して見学へ。 案内板を見つつ、いざ!と進もうとすると「そっちじゃないよ〜(^^)」と近所の方に声をかけられ、危うく遠回りをするところだった(^^;) ちなみに、やはり駐車場は無いとの事。お礼を言ってテクテクと進むと、激狭な道に!車で進まなくてよかった〜と、ホッと胸をなでおろした(^^) さて、朝倉城の西登り口に到着。が、マムシに注意の看板が!5月、いてもおかしくないんだろうなぁ…と、ドキドキしつつ山へ。 すぐに空堀や土塁が見ることができ、石積みの名残りがチラホラあって、なかなか素敵。 詰の段と詰西の段の間には大きな堀切が見られるし、井戸付近には長い石積みがあって、大満足な見学ができた♪