トロとまったり・tripのページ(足摺岬・中浜万次郎の像)

高知県 足摺岬

こうちけん あしずりみさき

■足摺岬=見学自由
駐車場=無料駐車場

2008/5/1現在

住所=土佐清水市足摺岬
国道321号を四万十市から土佐清水市へ南下し、国道321号が竜串方面へ右折する所の県道27号へ入り、 次に県道348号へ。ひたすら南下して、県道27号を足摺岬方面へ。

足摺岬

東の室戸岬と向かい合う四国最南端の岬。岬端は80mの海食断崖がそびえ、 その西の白山神社の下にある白山洞門は、花崗岩の海食洞門としては日本一といわれている。 また、岬には代表的な亜熱帯植物であるビロー樹が自生するほか、 2月には早くも赤い花が咲きほころぶ椿林のトンネル、四国霊場38番札所・金剛福寺など自然と歴史文化が今なお豊かに息づいている。 (土佐清水市・土佐清水市姉妹都市友好協会の案内板より)

【真ん中】点灯すると思わなかったので、見る事ができてラッキー(^^)
【右】足摺岬灯台。

中浜万次郎の像(ジョン万次郎)

中浜万次郎は、鎖国から開国に揺らぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果たし、 ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした1人であった。 万次郎は、この足摺岬にほど近い「中ノ浜」の貧しい漁夫の次男に生まれた。 14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、 半年の後、運よく通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。 船長ウィリアム・H・ホイットフィールドは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国に連れ帰り、 3年間正規の学校教育を授けた。万次郎は期せずして、アメリカにおける日本人留学生第1号となった。 彼は10年に及ぶ国外生活中ジョン・マンと呼ばれ英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って7つの海を周航した。 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。 とき1851年2月、かの黒船の来航に先立つこと2年であった。 このような時期も幸いして、彼は罪にとわれなかったばかりか、苗字帯刀を許され、幕府の直参に取り立てられた。 これより中浜万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授などで多忙な日を送ることとなった。 洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。 日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功の影には、彼の優れた航海術が大きな力となっていた。 帰国に際して、書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だと言われている。 明治2年には、東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。 44歳の時、少し健康を損ねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。(説明より)

足摺岬 2008.5.1記

生憎の雨、おまけに風が強くて大変な思いをしながら、展望台方面へ。 すれ違う人達は傘をたたんでいて、変だなぁ…?と思っていたんだけど、 展望台は、他の観光客もいるから危ないからたたんでたんだなぁ…と納得。 というか、本当に風が強かったぁ…(^^;) そして、展望台からの断崖の上に立つ灯台が、素敵なこと(≧▽≦) 「天狗の鼻」という場所からも、素敵らしいんだけど、さすがに雨なのでパスして、灯台の近くへ。 突端で近付けないかな?と思ったけど、すぐそばまで行くことが出来た♪ 他にも、駐車場付近に中浜万次郎のでかい像や、灯台のオブジェも置かれていた(^^) しかも、点灯する凝った物だった(^m^) 帰り道、県道348号の椿の道を北上中、濃い霧が!山道だから大変だった〜(@o@;)
(別ページで紹介)→  足摺岬灯台

▲上へ戻る