こうちけん みしまじんじゃ
■三嶋神社=見学自由
■坂本龍馬脱藩の道
駐車場=駐車場無し
2015/7/1現在
住所=高岡郡梼原町川西路
この時は、国道197号から国道440号へ。
国道440号を北上し、左カーブになる手前の左側に三嶋神社の鳥居と神幸橋がある。
三嶋神社では秋の神祭に国の重要無形民俗文化財津野山神楽が奉納される。 坂本龍馬はこの道を通って脱藩したと言われており、現在もその当時を偲ばせる道がこの先に残っている。(案内板より)
【左】三嶋神社の鳥居と神幸橋。
【真ん中】街灯にいた「こちらです 三嶋神社」を案内する人。
【右】神幸橋の手前に立つ「維新の道 坂本龍馬脱藩の道」の案内板。
脱藩の道は、神幸橋を渡って少し歩いた所。
神幸(みゆき)橋は町の中心部と対岸の梼原三嶋神社を結ぶ重要な橋である。
上部は梼原町産材(FSC認証材)を多用した屋根付橋となっている。
橋の中央部は、屋根を一段高くし、張り出し部分を設ける等、
千年以上の歴史を持つ三嶋神社や周辺景観に配慮した構造となっている。
木の温かさを持つ橋として、地元の方々や参拝者に親しまれている。
架設:平成14年(2002)、橋長:52.0m、幅員:3.0m(案内板より)
【左】鳥居側からの神幸橋と石碑。
【真ん中】斜めから見ても素敵!
【右】(車中からで、切り取り加工)真横からも凄くいい!
雨が凄く降った後だから、梼原川も凄い!
屋根があるので、こんな雨の日でも安心して川を渡る事が出来る(^^)
【3枚】神社側から。【真ん中】天井に×が続く♪
津野山郷の開祖・津野経高(つねたか)は、梼の木の多いこの地を梼原と名付け、
延喜19年(919)竹の薮より移り居城を築き、梼原宮首に伊豆(静岡県)より三嶋大明神を勧請したといわれている。
また天慶2年(939)藤原純友の乱の時、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向かい、
伊予三嶋大明神に詣で、純友の乱平定後帰国した時、伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられている。
慶応4年(1868)3月、三嶋大明神を三嶋神社と改称、明治40年(1907)、明治44年(1911)に梼原地区無格社21社が合祀された。
現在の本殿は享和3年(1803)、拝殿は明治23年(1890)に再建されている。拝殿の彫刻物は山口県の大工・中本喜作の作である。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」、文禄の役で朝鮮から持ち帰った「朝鮮松(ハリモミ)」、
桂月大町芳衛(おおまちよしえ)書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もある。
祭神:大山祗命、雷神、高おかみの神(水の神)(案内板より)
【左】神幸橋を渡り、石段手前の道を左へ行くと、龍馬脱藩の道へ(案内板有り)。
境内に立つ大きな木。見上げると、フワッと手を広げているよう。
樹齢約400年、樹高約30m、周囲3.7kmで、通称「朝鮮松」ともいわれる。 豊臣秀吉が諸国大名に朝鮮出兵を命じ、文禄元年(1592)津野親忠と中平左京之亮光義は、 長宗我部軍に加わって従軍し、帰還の時に持ち帰って植えたものと伝えられている。(案内板より)
【左】神幸橋を渡り、境内への石段手前の道を左へ行くと、龍馬脱藩の道(案内板有り)。
【真ん中】左の写真からすぐ。石垣や石段、木々の雰囲気が落ち着いていい感じ。
【右】案内板が続くので分かりやすい。
【左】坂本龍馬が歩いた道を歩く…。不思議な感じ。
【真ん中】緩い坂を上がる。昔はもっと、木々で生い茂っていたのかな…?
【右】振り返って。
【左】貰ったパンフで使われていた場所♪薄暗い所からの竹藪の緑が映えてきれい。
【右】振り返って。
【左】道路を挟んだ奥の道に続いていく。
【真ん中】「こちらです 維新の門(群像) 近道」の案内。
【右】車道が維新の門(群像)への近道、右上が「維新の道 坂本龍馬脱藩の道」。
三嶋神社・坂本龍馬脱藩の道 2015.7.1記
駐車場が近辺に見当たらず、仕方がないので、だんにゃは車、私が見学へ。 まず三嶋神社へ架かる屋根付きの神幸橋。端から見る奥行きや天井等が凄く良くて♪ 丁度、雨も降っていたし、結構な量の雨が降った後の川の上を歩くのにも、凄く安心感があった(^^) 川の音の迫力に怖さも感じたし…(^^;)三嶋神社やハリモミ等の見学後、坂本龍馬脱藩の道へ。 案内板に従って行くと凄く素敵な道になって、貰ったパンフの写真の所へ到着。 上がりきると道路を挟んで、脱藩の道は続くけれど、ここで見学終了。 下調べでは遠いのかな?と思っていたけど、三嶋神社からすぐの場所だったし、 坂本龍馬が歩いた所を自分も歩く事ができたし、来て良かった(^^) ちなみに、見学時間は約13分。