こうちけん なかひらぜんのしんぞう
■中平善之進像=見学自由
駐車場=駐車スペース
2015/7/1現在
住所=高岡郡津野町北川
この時は、梼原町から国道197号を東へ。
「高野の舞台」の分岐案内の所に「龍馬脱藩ゆかりのみち 津野山街道」の表示や茶堂があり、
ほんの少し先(分岐手前の右側)に、中平善之進像が立つ。
【左】すごい迫力!
【右】内閣総理大臣 中曽根康弘の書「義庄中平善之進」。右側の石が、顔の様に見えてビビった…。
中平善之進名は穏敦(やすあつ)、幼名を鴨之助という。 宝永6年(1709)北川庄屋上岡吉左衛門次正の長男として生まれる。 幼にして利発、享保8年(1723)6月、15歳にして北川大庄屋代勤を聞届けられた。 元文3年(1738)郡方の勧めで梼原村大庄屋中平弥左衛門の養子となった。 藩においては財政建直しの為宝暦2年(1752)国産方役所を置き、 国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとった。 津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいたので農民は窮乏して来た。 善之進は数度津野山九ヶ村の庄屋を招集して協議し藩庁に対策を訴えた。 藩はこれを握りつぶして何らの対策を立てないのみか、 その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、農民等は怒って 「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めた。善之進はそれを押鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えようとしたが、 芳生野村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主だった者を召捕り入牢せしめた。 時に宝暦5年(1755)これを「津野山騒動」と呼んでいる。善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けたが、 蔵屋の死にあい黒白をつける術を失い、宝暦7年(1757)7月26日神在居において打首の刑に処せられた。 この時突如暴風雨となり荒れに荒れたので、これを世に「善之進時化(しけ)」と呼んで、善之進の怨霊のなせる業として恐れられた。 その後、藩庁では国産方を廃止する処置をとったが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、 回天の事業をなしとげたのである。善之進時に49歳であった。(中平善之進銅像建立期成同盟会)
【左】中平善之進像付近に説明板が立ち、ここから屋根が見えた。
【右】隣は神社。
この舞台は、明治6年8月に建築されたもので、舞台裏でのハンドル操作により、 廻転させる当時としては進んだカラクリの「鍋蓋上廻し式舞台」である。 前橋工業短大の松崎茂博士の調査発表「農村舞台考」の中に、 「高野の舞台は、その機構で日本唯一の残存する鍋蓋上廻し式の農村舞台で、 発展過程の歴史的資料であり、学術的にも非常に貴重なものである。」 と述べられている。その昔より、この地方で、民衆娯楽として農村歌舞伎が盛んであったことは、 各所に残る農村舞台や、旧家に残る浄瑠璃本などによって推察される。中でも、当高野地区は最も盛んであったようで、 山本家には、天誅組で活躍した前田繁馬先生愛蔵の「伊賀越道中記」等数多くの浄瑠璃本が保存されている。 言い伝えによると、この舞台建築前にも廻り舞台があったとのことであり、 藩政中期頃既に同種の舞台が建築されていたことも考えられる。 価値高いこの舞台と共に、農村歌舞伎の伝統も守り続けてゆきたいものである。(東津野村教育委員会の案内板より)
写真では中が暗くて見えないけど、若干怖かった(^^;)
藩政時代から津野山には、各地に通ずる街道沿いに茶堂が建てられていた。 茶堂の中には仏像が祭られており、盆月には里人が交代で通行人に茶菓の接待をして、 心情と社交の場としての役割を果たしていた。年中解放されていて、旅人はここで自由に宿泊する事が出来た。 茶堂は道路の整備が進むと、次々と取り壊されて今では町内に数か所残っているのみである。 ここの茶堂は萩の地蔵が安置されている。(津野教育委員会の案内板より)
【左】「龍馬脱藩ゆかりのみち 津野山街道」。左の建物の横に茶堂がある。
【右】そばにあった可愛い小鬼達が描かれた看板。
中平善之進像 2015.7.1記
中平善之進像付近には、高野の舞台や茶堂等の見所もあった(^^) 小雨が降って、石の凹凸がよく見えるようになっているからか、「義庄中平善之進」と書かれた右側の石が、人の顔に見えた! ちゃんと撮れてるかな?と画像チェック時に気付いて「うわっ!」って本気でビビった(^^;)