こうちけん すくもじょう
■宿毛城(別名=松田城)
■石鎚神社
駐車場=無し
2008/5/1現在
住所=宿毛市
この時は、海沿いの国道321号を北上し、高架をくぐって、国道56号との交差点を真っすぐ進み、
突き当たりの県道4号を左折。坂を上がって行くと、左側に石鎚神社がある。
宿毛城は宿毛市を北東に流れる松田川の西側の小山にあり、元来は松田城と称した。創築時期は不明。 松田兵庫が城主だった時期もあるが、天正3年(1575)長宗我部元親の軍勢が土佐一条氏を攻め、その勢力下にあった当城を陥落させたときの城主は依岡伯耆守(ほうきのかみ)であった。 長宗我部政権下になると、一族の長宗我部右衛門大夫が入城し、四国西南地域の拠点となった。 慶長6年(1601)山内一豊の土佐国入封に際し、軍事的要所にある当城には、一豊の甥の山内可氏(よしうじ)が周辺のおよそ6千石の知行地を与えられて入城した。 元和元年(1615)一国一城の幕命により城は破壊されるが、可氏は麓の土居(屋敷)を改築し、宿毛統治を続けた。 可氏以降も子孫が代々ここで宿毛を治め、これを中心に城下町も形成した。 延宝8年(1680)頃の絵図には、土居の様子や町割り、土佐藩奉行野中兼山の治水事業による河戸堰、宿毛総曲輪(堤)などがみてとれる。 土佐藩内には同様の経緯で、各地の土居に重臣が点在し、これらは「土居付家老」といわれて藩士の中でも上位の家格をほこった。 明治維新にともない、11代当主山内氏理(うじさと)は、姓を「伊賀」と改め、当地を離れて東京に移住した。 土居は遺構も含め現存せず、城郭は城壁を若干みることができる。 城下町については、嘉永7年(1854)の地震後の再開発によって整理された町割が、その面影を今に残している。(案内板より・絵図も)
【下】苔むした石垣が素敵!ブレない写真が撮れてよかった〜。
宿毛城 2008.5.1記
下調べの時点で、駐車場が無さそうだったので、不安だったこの城跡。 でも、城跡の反対側に1台程のスペースがあって、無事にとめることが出来た♪ デジカメには厳しい夕方の6時(^^;)ブレまくりの中、どうにかまともに写すことができ、見学終了〜♪ さて、車に乗りこもうと、ドアの取っ手に手を掛けた途端、激痛!痛いっ!ナニッ!? 手を見ると、左の中指に丸い物体がっ!ヒィイイイイ!ブンブンブンブン振るい落とす。 が、指には針が…。それを抜いてはいいけれど、ジンジンと襲ってくる痛み! それは、縫い針が刺さっているような痛みで、「抜いてくれ〜!!」って感じ。そういえば今日、アブだか蜂だか飛んでるのを何度も見たなぁ。 その後、本屋さんに駆け込んで病院を紹介して貰い、蜂だった場合、 アレルギー症になる恐れがあるということで、注射を打ったあと、1時間点滴をする羽目になったのでした…(TへT)