こうちけん よしむらとらたろうぞう
■吉村虎太郎像=見学自由
駐車場=無し
2015/7/1現在
住所=高岡郡津野町力石
この時は、梼原町から国道197号を東へ進んで国道439号との分岐を通り過ぎて、
「四万十源流点の村 津野町」の看板付近にある吉村虎太郎像の案内板に従って左折。
(※でも、こちらからだとUターンするような感じ+狭いので入りにくい。
この時は、通り過ぎてUターンして入った。)。
少し進むと(一瞬で通り過ぎるので注意。)右側に丘へ上がる石段(像の案内有り)があって、その上に像が立つ。
ちなみに、国道197号を東へ進んで津野町役場 西庁舎横の左斜めの道の方が入りやすく、
突き当りを左折、すぐ右側が像で分かりやすい。
天保8年4月18日芳生野村庄屋吉村太平の長男として生まれた。 非常な秀才で、僅か11歳で北川村庄屋となり、その後、須崎浦庄屋、下分村庄屋を経て、 安政6年梼原村庄屋となり、各地で治績をあげたが、文久元年に武市瑞山とともに土佐勤王党を組織して、 勤王に奔走するようになった。文久2年正月には、密かに防長を遊歴、九州に渡り平野国臣にあい 「島津久光の入京の機に挙兵する」ことを約束して帰藩、武市瑞山を説いたが、 瑞山は「藩を挙げてやるべきだが、まだ藩論が決まっていない」と言って応じなかったので、 坂本龍馬に脱藩をすすめ、自らはいち早く宮地宣蔵と2人で脱藩、平野の義挙に加わろうとしたが寺田屋の変にあい、 舟牢で高知に送り返され、12月まで獄窓で過ごした。文久3年2月、再び上京、王事に奔走。 8月には明治天皇の叔父君に当たる中山忠光卿にすすめて大和義挙を計画。 忠光卿を隊長に、自らは総裁となって、いわゆる天誅組を組織し、 天皇の大和行幸に先駆けて大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、江戸幕府直轄の五条代官を襲撃した。 その時、朝議が一変し、大和行幸はとりやめになったので、事志と違ってしまった。 しかし、これまで来たからには初志を貫徹しようと高取城の焼討をはかった。 この時、不運にも味方の弾丸に当たり負傷し、戦は惨敗に終わった。 これより十津川に転戦したが、時に利あらず、9月27日鷲家谷(奈良県) 石の本に金谷健吉一隊の銃弾のもとに「吉野山 風に乱るるもみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙とみよ」 の時世を残し、27歳の若さで散華した。(吉村虎太郎先生銅像建設期成同盟会の説明板より抜粋)
【左】道中に見かけた「四万十源流点の村」津野町の看板。
【真ん中】「四国カルスト 山麓の村」津野町の看板。ここの吉村虎太郎像の案内板に従った。
でも、アクセスでも書いたけど、西から来た場合入りにくい!!写真は通り過ぎて、東側から来たところ(^^;)
【右】「四万十源流の里」東津野村の表記のある街灯。
【左&真ん中】「神楽の里」恵比寿さんと般若かな?
【右】「高原の里」花バージョン。
【左】像へ向かう階段。
【真ん中】階段の所にある案内板。『風雲児 吉村虎太郎「この上に像あります」』。
【右】逆から見た場合。こちらからも同じく、案内板が見えるようになっていた。
【左&真ん中】近くからだと見上げる感じに。少し険しいお顔。
【右】遠景。遠くからだとそのままの像が見る事が出来る。
像の付近に駐車スペースが無くて、急遽近くの津野町役場 西庁舎へ。 その一角に図書館があって、名称が「虎太郎館」!!町に愛されているんだなぁ…と温かい気持ちになった(^^)
吉村虎太郎像 2015.7.1記
小高い丘に立つので遠くからよく見える。入口は案内板で気付いたものの、駐車場が無くて困った(^^;)
どうしようか…ととりあえず津野町役場 西庁舎へ。すると、一角にある図書館の名称に虎太郎なんて付いていてビックリ!
なんかいいなぁ…。ところで像はというと、背後にお墓が立っている。
お墓を避けて像全体的に撮ろうと思うと、どうしても斜めになるし、見上げる感じに…。
風に吹かれて衣服がなびき、先を見据える感じの姿が格好良かった!
(写真)小高い丘を遠景で。ちょっと龍馬を思い出す。