くまもとけん ちゅうせいひとよしじょう
■中世人吉城(原城)=見学自由
駐車場=無し(この時は路駐)
2010/5/1現在
住所=人吉市中城町・他
この時は、九州自動車道 人吉I.Cを下りて県道54号を、案内板に従って右へ。
道なりに県道54号を進み、五日町信号を過ぎて川を渡り、相良護国神社を過ぎて、人吉城跡の案内板を左折。
そのまま進んで行くと、右側(斜め上)に案内板があった。
中世の相良氏の居城は、国の史跡となっている近世人吉城の背後の上原、中城、原城、富ヶ尾一帯の台地上に位置し、 さらに近世人吉城の本丸周辺をも含む広大な中世城であった。 その規模は、東西1km、南北0.5kmに及び、麓集落を含めれば約40万uの城容であった。 これは戦国時代に球磨、八代、芦北の三郡支配をなし、日向、大隈、薩摩の隣国へも領土の拡大を計っていた中世相良氏の威容を十分に裏付けるものである。 文献によると、中世人吉城は上原城を本城として、中原城、下原城、内の御城、西ノ丸といった複数の曲輪からなっていた。 昭和63年に人吉市教育委員会が行った発掘調査の結果、上原城において城主の館の一部と見られる大型の掘立柱建物3棟以上、 小型の竪穴式建物1棟、礎石建物1棟が確認されたほか、各曲輪を形成する空濠、堀切などの存在が明らかになった。(人吉市教育委員会の案内板より)
【右】北が下。
【左】1番上の写真を車道側から。階段を上がると、何かの碑が。(※備忘録:写真がぼけていた。)
【真ん中】左の写真の道路奥。
【右】堀切?空堀?
中世人吉城 2010.5.1記
近世人吉城からすぐ。近世人吉城の三の丸や二の丸がある所が、内の御城部分にあたる。 案内板があるから寄ったけれど、他は?状態。既に、夕方6時40分だったし、これで見学終了。