くまもとけん うとこじょう
■宇土古城(中世宇土城)=見学自由
駐車場=無料駐車場
2010/4/30現在
住所=宇土市神馬町(しんめまち)
この時は、九州自動車道 松橋I.Cを天草・松橋方向へ左へ。
次に、少し先の国道3号の松橋バイパスへ。
直進の県道57号が渋滞していたので、今回は県道14号へ左折。
少しして宇土市境目町信号を右折。市街地を通って、
県道297号との宇土市本町4丁目信号を過ぎて、
次の市役所付近の信号を左折。小学校を過ぎて、走りやすい道を進み、
高校のグラウンド手前の広めの道を左折。
JA熊本うき宇土斎場の前を通って、先の広めの交差点を右折。
宇土城跡は、通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にある。西岡台の東約500mには、小西行長が16世紀末に築城した宇土城跡(城山)がある為、 西岡台の宇土城跡を「中世宇土城跡」や「宇土城跡(西岡台)」と呼んで区別している。 言い伝えでは、永承3年(1048)に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされている。室町時代には、宇土氏と名和氏が宇土城主となった。 宇土氏は、守護大名だった菊池氏の一族と伝えられ、古くから宇土に勢力を置いていたが、文亀3年(1503)に菊池氏との争いに敗れて滅びた。
一方、名和氏は、室町時代の初め頃から八代にいたが、文亀4年(1504)、相良氏が名和氏を攻めた為、八代から宇土へ移った。 それから80年余り名和氏は宇土城主として活動した。城を使わなくなった時期は、小西行長が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられる。 城の縄張は、西岡台の頂上部に東西に並ぶ2つの曲輪がある。 東側の曲輪は「千畳敷」と呼ばれており、周囲に人工的に削りだした切岸という崖や堀を造り、西側は「三城」と呼ばれ、切岸で守りを固めている。 また、三城の西側には幅約10mの巨大な堀と、その西側に土塁が築かれている。西岡台の南側斜面や麓に、領主や家臣、一般民衆が住んでいたと考えられる。 (宇土市教育委員会の案内板より・絵図も)
【左】宇土古城へ向かう道。
【真ん中】怪しげな宇土城跡碑。
【右】駐車場はこの右側のトイレ横。
【左】右上の写真の左側にある竪堀。
【真ん中】左の写真を上から。竪堀横には腰曲輪。
【右】駐車場側の上部の曲輪。段がいい!
【左】千畳敷の虎口。
【真ん中】虎口を正面に左側。堀底に石がゴロゴロ…と思ったら石塔!
【右】虎口を正面に右側。
■内堀に投げ込まれた大量の石塔…千畳敷の出入口(虎口)付近の発掘調査で、五輪塔や宝篋印塔などの石塔(墓石)が内堀跡から大量に出土した。 出土状況から意図的に投げ込まれたものと推定され、石塔の投棄による「城破り(しろわり)」(城の生命を断ち切る儀礼や儀式)を具体的に示す貴重な事例として注目されている。 城破りに関係する石塔の投げ込みは九州で初めての発見で、全国的にも数例しか確認されていない。 出土した石塔の大半は、保護する為に埋め戻したが、一部は風化しないように石材強化処理を施して野外展示した。(宇土市教育委員会の案内板より)
【左&真ん中】重なる部分はあるけど、こんな感じでぐるりと巡る堀。
【右】右から千畳敷、内堀、段々になった腰曲輪。
【左】コンクリートで固められて、圧迫感が凄い。
【真ん中】振り返って。
【右】千畳敷。19号建物の他、建物跡が表示。
主郭の千畳敷ではたくさんの柱穴が確認されており、重なった状態で見つかったものも多く、何度も建て替えが行われたことがわかる。 建物の構造は、素掘りの柱穴に柱を据えつけた掘立柱建物で、瓦が出土しない事から屋根は板葺もしくは萱葺だったと考えられる。 千畳敷における建物跡の変遷を検討した結果、遺構表示を行った建物跡および柵列跡は同時期に存在していたとみられ、その年代は16世紀後半と考えられる。 19号建物跡は桁行4間(総長7.3m)、梁行3間(総長5.6m)、建物軸方向は南北棟の掘立柱建物跡である。 平均柱間寸法は桁行1.83m(6尺)、桁行1.87m(6尺2寸)で、柱掘り方は長方形と楕円形、柱痕跡は円形(直径20cm前後)である。 本建物跡西側に所在する2つの柵列跡のうち、東側の柵列跡は4間(総長8.7m)、軸方向は南北であり、西側の柵列跡も4間(総長8.2m)で軸方向は東西である。(宇土市教育委員会の案内板より)
【真ん中】虎口?を下りていくと、すぐ下に未完成の堀跡、東側の竪堀が。
【右】写真真ん中の細長い緑の所が宇土城。
千畳敷北側の堀底は、デコボコしている。これは「小間割」と呼ばれる工区分けの跡、 もしくは堀の掘削工程の一過程を示しており、工事が途中で中止された為に残ったと考えられる。 10次発掘調査(1998年度)では、堀底の一部で、硬い岩盤を掘った時に生じた土砂が厚く堆積した状態を確認した。 これは、工事に従事した当時の人々が、掘削土を堀の外に運び出さなかったことを示している。 つまり、何らかの理由で完成間近だった堀の工事が中止されたと考えられる。また、堀の壁面から突き出た部分(突出部)や列石がある。 これらの距離は、ほぼ10尺(約3m)間隔である事から、工事を行う際に利用したものと思われる。 中世城跡では全国初となる未完成の堀跡の確認例であり、当時の土木工事の手順や方法を知る上で重要である。 (宇土市教育委員会の案内板より)
最初、道かと(笑)それにしては、おかしいなぁと。なるほど(^^)
■千畳敷を守る外堀…千畳敷より一段下った平場の発掘調査で、外堀跡が発見された。 敵の侵入を防ぐ目的で掘られたと考えられ、規模は幅約2〜4m、長さ約130m、深さ約1.5m。 千畳敷南側では約10mに渡って途切れており、この部分は通行できるようになっていた。 千畳敷の出入口(虎口)付近で、外堀と内堀がつながっていることから、これらは同時期に存在し、千畳敷の守りをより強固にしていたと考えられる。 整備では平面的に表示した。(宇土市教育委員会の案内板より)
【左】外堀。外堀で紹介した写真は、この先で撮影。
【真ん中】奥に見えるのが三城。
【右】千畳敷と三城との間。段が素敵〜♪
【左】千畳敷側から見下ろして。
■西岡神社北側…ここからは、中世の掘立柱建物跡・土師器皿埋納土壇、さらには古墳時代の箱式石棺1基が検出されている。
■腰曲輪…この城の北側は、急な崖によって敵の侵入を防いでいる。
しかも、この一帯に見られるように、崖の上部には腰曲輪と呼ばれる幅20m程の帯状の地形があり、発掘調査によって、そこに建物が配置されていたことが分かった。
これらの、崖面や帯曲輪が一体となって、一層、城の守りを堅くしている。
■掘立柱建物跡…この地点より発掘された掘立柱建物跡3棟の柱の位置を表示したもの。南北は共に8m、東西は3.9mと3.4mをはかる。
別の1棟は西側に1mの張り出しを持ち、東西3.3m、南北6mの規模である。室町から戦国時代にかけて建てられたものと考えられる。(宇土市教育委員会の案内板より)
【左】千畳敷から道路を挟んだ東側。
【真ん中】掘立柱建物跡。左下の写真のブルーシートのこんもりした木々の所。
【右】腰曲輪。右側の高い土塁が、左下の写真にあたる。
宇土古城 2010.4.30記
宇土城は見学した事はあるけど、宇土古城は初めてだったので、こんなに近くにあったことにビックリ。 丘陵だけど、駐車場からすぐに見学ができて嬉しい(^^) そういえば、千畳敷の虎口付近の内堀を、なんだか気味の悪い堀だなぁ…と見たんだけど、説明板に大量の石塔が投げ込まれた堀と! なるほど!しかも、九州で初めての発見(@@) 中世城跡では全国初の確認の未完成の堀跡なんて貴重な遺構が見れたり、段々になった腰曲輪がとても素敵だったし、大満足の見学ができた(^w^) ちなみに、西岡神社の前を車で通ったら、思ったより大きい!!木漏れ日が素敵な神社だった(^^)