きょうとふ みやづじょう
■宮津城=見学自由
駐車場=無し
【左】太鼓門。(場所=宮津小学校)
2008/11/1現在
住所=宮津市鶴賀
この時は、国道176号を東へ進み、浜町信号で府道9号へ(大江方面へ)右へ。魚屋町通りの次の府道606号へ左折。
川の手前(市役所付近)に縄張図。そのまま進んで、駅前通りを進むと宮津駅。ここで散策地図を貰うと便利。
ちなみに、上記の国道176号をそのまま東へ進んで、新大手橋を渡って少し(すぐ?)して右側の道路沿いに、宮津城の石がある。
あと、太鼓門付近は一方通行なので、アクセスに注意。
※案内板の方角が、北が下になっているので注意!
近世宮津城は、天正8年(1580)細川氏(藤孝・忠興)の入国築城に始まり、次いで入国した京極氏が藩主高広の代に拡張・完成した。 細川城の竣工はその入国1,2年の後とみられ、京極城の完成は寛永年間と伝えている。 京極城の城縄張は、本丸・二の丸・三の丸を備え、古絵図等により、今の町割にほぼ対比させることができる。 細川城の規模はよく分からないが、少なくとも本丸部分の縄張は重なり合う部分が多いと推測される。 京極氏の後、永井、阿部、奥平、青山と城主が代わり、宝暦9年(1759)遠州浜松から本荘氏が入国、以後明治に至った。(宮津市教育委員会の案内板より)
■改造大手橋碑…この石碑は、明治19年(1886)の旧大手橋完成の2年後に、同橋東詰めに建てられたが、昭和59年(1984)の橋の架け替えに伴い移設したものである。 碑文は、旧宮津城の大手門に通じる場所に架かっていた木造の橋を、石造りの橋に架け替えられることになった経緯や、地元有志者が資金の協力をしたこと、また、 「山陰地方でこれほど壮麗で堅牢な橋はない」などの賛辞が刻まれており、当時の住民の思いが伝わってくる。(宮津市の案内板より)
■宮津城の石(くろがね門の袖石垣、大手橋橋脚の礎石、船つなぎ石)… 左後方の巨石は、この南方80m余りの所にあった本丸入口くろがね門の袖石垣の1つである。その前のくぼみのある石は、 大手橋橋脚の礎石、その左の横にある波状の石柱は、この北側波止場の船つなぎ石である。 現存する宮津城構築物の遺構としては、この南方10mのところに、本丸北部石垣の一部が地上に顔を出している程度である。 しかしながら、地下にはかつての宮津城を偲ぶことができる石垣などの構築物が今も遺存し、発掘調査によりその様相をうかがい知ることが出来る。 当地は、宮津城北西部の二の丸地内である。(宮津市教育委員会の案内板より)
【左】宮津城の石。
【真ん中】宮津城の石より二の丸東方面を。
【右】二の丸南辺りには、郵便局。
【左】大手橋と新大手橋の間の川沿いの案内板。左下の写真の建物側にある。
近世宮津城は内堀の中に、本丸と二の丸を、内堀と外堀の間に、三の丸を配置した平城であった。 この付近は三の丸の西部の一郭で、東側には切手門と内堀、西側には大手橋と川があって、その間に挟まれた屋敷地である。川は外堀の役割を果たしていた。 宮津城沿革史の中において最も古いところで、既に天正8年(1580)に始まった細川藤孝・忠興による宮津浜の新城築造において、この付近は重臣屋敷の地と縄張りをされたらしい。 元和8年(1622)京極高知の死後、丹後を三分し、宮津城へは嫡子高広が入った。高広は細川城を更に拡張して近世宮津城を完成した。 この辺りが三の丸とよばれるに至ったのは、その頃からと思われる。 細川城時代には、重臣松井・有吉・米田氏等の屋敷が並び、その後も藩主一門や家老の屋敷等があって、宮津城本丸へ入っていく正面の威儀を正した一郭であった。 宮津城跡第三次発掘調査(昭和58.11〜同59.3)において、この付近から細川城遺構の石垣があらわれ、細川家臣の茶人、 沼田一之斎(いっしさい)墨書銘の天目茶碗等が出土して、京極城の前身細川城の存在が確かめられた。(宮津市教育委員会・宮津市文化財保護審議会の案内板より)
【左】大手橋から三の丸を。
【真ん中】三の丸から大手橋と市役所。
【右】宮津駅だった三の丸。ここから、宮津小学校にある太鼓門が近い。
宮津城 2008.11.1記
まず、宮津駅に寄って、観光パンフ(というか地図)を貰うことをオススメ。 とても詳しく書かれたものがあるので、散策にとても便利♪ ちなみに、その宮津駅も三の丸だったよう(^^)そして、市役所付近に縄張図が書かれた案内板がある。走る車が、ガラスに反射して写し辛いけど。 この時は、工事をしている箇所が多くて、「この辺りが本丸かな…。」と思っても、恥ずかしくて写せなかった(笑) というわけで、紹介が二の丸と三の丸だけになってしまった(笑)太鼓門や宮津城の石、説明板など見ることができて、いい感じの見学ができた(^^)