三重県 津城 |
■津城=見学自由 ■お城公園 駐車場=近辺有料駐車場(すぐ側)(2006.3.20現在) |
住所=津市丸之内 この時は国道23号を鈴鹿市方面から津市方面へ進み、 県道42号との交差点を過ぎて、津警察署入口信号を右折。 入って最初の交差点を右折。進んで右に有料駐車場があった。 その前が津城。 |
津城 | ||
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津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきた時、 長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には5層の天守閣が完成し、 当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。 その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの時西軍の攻撃を受け、 城・城下町とも戦火を受けた。慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、 城に大改修を加え城下町を整備した。 本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、 天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に 巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城である。 城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町家が置かれた。 町外れを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。又、堀川を掘り、 東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。 更に堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。(案内板より・絵図と写真も) (右の写真)丑寅三重櫓と戌亥三重櫓、明治時代の初め頃。 | ||
東之丸 | 本丸 | 津城跡の標柱 |
小さなお宮があったといわれている。(津市教育委員会の案内板より) 丑寅三重櫓跡から。愛車が見える♪ | 周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があり、 多門櫓と呼ばれる渡り廊下の ようなもので繋がれていた。(津市教育委員会の案内板より) 公園には、藤堂高虎公の像がある(^w^) | |
藤堂高虎公像 | ||
弘治2年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(のち在土村、現滋賀県甲良町)に生まれた。 15歳の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4年(1576) 21歳で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に300石で召し抱えられ、天正13年(1585)には 紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて1万石の大名となった。 その後、豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)7万石となり、二度の朝鮮出兵 にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に 味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)20万石の大名となった。 そして、慶長13年(1608)いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の 伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役の後に加増され32万3千余石の大大名と なった。また高虎は、築城の第1人者としても名高く自身の居城として築城した 板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成は勿論の事、 幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・丹波亀山城・ 大坂城・二条城と数多く手掛けている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、 また各地を奔走し、席の暖まる暇も無いものであったが、武将らしさとともに 領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。 (津中央ライオンズクラブの案内板より) | ||
丑寅三重櫓跡 | ||
(左)北側。こちらが丑寅三重櫓跡。
北も東も同じ形で、凄く高い石垣♪
(真ん中)丑寅三重櫓跡から模擬三重櫓を。 (右)丑寅三重櫓跡から見下ろすと、足が すくみそうなほど高い! 柵も無いから、怖い怖い(^^;) |
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模擬三重櫓 | ||
丑寅三重櫓の写真と位置も形も違う三重櫓。 だけど、結構素敵な外観だから、いろいろな角度から写した(^^) | ||
前日、ライトアップを写すも、 近すぎて難しくウロウロ。 フッと気付いた暗闇のベンチに、 女の人が!ビックリ…! | ||
内堀 | ||
(左)丑寅三重櫓跡側から戌亥三重櫓跡方面。 (真ん中)丑寅三重櫓跡から戌亥三重櫓跡方面。 (右)北側。 | ||
戌亥三重櫓跡 | 月見櫓跡 | |
(左)それにしても、高い石垣! (真ん中)内側。 (右)埋門から長く続く石垣の先に。外から写さなかったなぁ(^^;) | ||
埋門跡 | ||
(左)天守台(左側)横の埋門跡。 (真ん中)本丸から。 (右)埋門から南側の内堀跡を。 ゲートボール中〜(^^;) | ||
天守台 | ||
(左)本丸から。 (真ん中)左の写真の右奥は、荒々しい!! (右)外側からで、右側に埋門。素敵な石垣♪ | ||
西之丸 | ||
現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。
南西には玉櫓と外郭から入ると鍵の手に曲がった所に2階の櫓門があった。
本丸との境には西の鉄門があり、土橋でつながっていた。
(津市教育委員会の案内板より)
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(左)桝形の入口。 (真ん中)左の写真から右に。2階の櫓門跡かな? (右)西之丸。入徳門が置かれている。 | ||
入徳門 | ||
文政3年(1820)、第10代藩主藤堂高兌(たかさわ)藩士やその子弟を教育する為の 藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門が、この門である。 入徳門の名前は、「大学は諸学徳に入る門なり」 という言葉からきているといわれ、 徳に入るの門として作法は厳格であった。 明治4年(1871)、有造館は廃校となったが、 その後に創設された小学校第一校、師範学校、 津中学校、三重女学校兼付属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。 昭和20年(1945)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。 戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和42年(1967)の同館移築により、 この門のみ残された。この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和46年(1971)現在地に 建てられたが老朽化が激しくなり、昭和61年(1986)より昭和62年(1987)にかけて 保存修理工事(解体復元)を実施した。(津市教育委員会の案内板より) | ||
丸之内殿町 | ||
旧丸之内と外堀埋立地を合わせて明治後期にできた新名町の1つで、 下之御殿にちなんだもの。下之御殿には側室の屋敷や蔵屋敷があったが、 江戸時代後期は藩主も居住するようになった。(石碑より) |
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二之丸 | ||
内堀と外堀に囲まれた所で、重臣の屋敷や
藩政の中心機関があった。
また周囲には12の小さな櫓が築かれ、北(京口御門)・西(伊賀口御門)・
南(中島口御門)に門が設けられていた。文政3年(1820)には、藩校
有造館がおかれた。現在、西之丸の日本庭園の中に有造館の入徳門が
移築されている。(津市教育委員会の案内板より)
(左)津市役所。(右)市役所付近の お城西公園。土塁らしきものが(^^) |
■津城
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